森本哲郎 日本語 根ほり葉ほり [#表紙(表紙.jpg)] [#裏表紙(表紙2.jpg)]     ま え が き  言葉というものは、どんなきっかけから生まれたものなのであろう。おそらく、きわめて単純で自然な、発音しやすい音から出発したものであることは、察するに難くない。  それにしても、そうした音を組み合わせて意志を表示したり、物事を指示したりするために、人間は、じつに長い歳月をかけたにちがいない。そして、具体的な名詞から、しだいにそれをつなぎ合わせ、それぞれの言語体系をつくりあげていったものと思われる。私たちはその歴史を、幼児の言語習得過程を観察することで、わずかに想像する以外にないのである。  そのような言葉の長い形成の歴史を考えるとき、私は思わず深い感慨にふけらざるをえない。私たちがふだん何気なく使っている言葉のひとつひとつに、そうした過去が秘められているからである。といっても、そのなかには、まだ歴史の浅い単語や、外国語の借用や、さらには一時、熱病のように使われ、あっという間に消え去っていく流行語などもたくさんあるが、基礎的な語彙《ごい》や、言葉が記録されて以来、そのままの形でいまなお用いられている語も少なくない。発音や用法、意味などの変遷《へんせん》はあっても、こうした言葉が日本人のものの考え方や、価値観を形成したのである。  日本語の語彙の総量をあげたら——もっとも、語の数え方にもよるが——膨大な数となろう。ちなみに『広辞苑《こうじえん》』(第三版)では「わが国語のうち最も基礎的と思われる語」として約千語をえらんでいる。そのひとつひとつに、日本人の精神発達史を読むことは、きわめて興味あることだが、それにはたいへんな労力が必要であろう。いま、私はこうして日本語の文章を書いているのだが、例えば、「ひとつひとつ」と述べたその「ひとつ」という和語は何に由来するのか。また、その言葉は日本人の思考と、どのように関係してきたのか、そんな疑問を追求していったらきりがない。おなじことは、「長い年月」と書いた「ながい」という言葉、「たとえば」という和語、「ある」という基礎語についてもいえる。極論すれば、「ある」という自動詞一語を探求するだけでも、日本人特有の思惟《しい》形式や、存在論的思考を、一冊の本にまとめることもできるのだ。  そんなわけで、私は時おり、|何となく気になる言葉《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を考え直してみることが多くなった。すると、無意識で使っている日常の言葉のなかに、日本人の性格や、価値観や、思考様式がかくされているのを、あらためて思い知らされた。そこで、数年前、私はそのいくつかを集めて一冊の本にまとめた(拙著『日本語 表と裏』)。しかし、その「あとがき」にも記したように、考えれば考えるほど、言葉の——ことに日常、私たちが無意識にしゃべったり、書いたりしている日本語の——由来をたどることはむずかしいのである。語源ということになれば、とうぜん、いろいろな異説があり、いかようにも解釈できるからだ。そこで、日本の国語学者たちのあいだでは、語源の穿鑿《せんさく》は、つい敬遠されがちになる。その学問的根拠が容易に見出《みいだ》せないからだ。  けれど、言葉の由《よ》って来《きた》るところを、推測を交えながら、あれこれ考えるのは、きわめて興味深いことだし、また、その過程で思わぬ発見もある。たとえ、その推測が厳密な証明を欠くとしても、いろいろ思案しているうちに、日本人の思考様式は、こんなふうにして出来あがったのではないか、と思わせるに充分な例証にもぶつかるのである。  というわけで、私はこのエッセイを、専《もつぱ》らそれに焦点を合わせてつづってみた。だから、本書の主眼は語源の言語学的検証ではなく、日本人の言葉づかい、表現方法を通じて、日本的性格を浮き彫りにしたいという点にある。いうなら、本書を前著『日本語 表と裏』の姉妹編として読んでいただきたい、と思っている。  したがって、本書は前著と同様、表題の「根ほり葉ほり」が示しているように、あくまで日本的な表現に限った。しかし、私にとっては、まだまだ気になる言葉が、それこそ「山ほど」ある。たとえば、「やがて」というような副詞。私は知人の中国人に、「やがて」とは、どのくらいの時間をさすのか、ときかれて弱ったことがある。また、「ふざける」という動詞。この言葉を手がかりに、日本人のユーモア感覚をさまざまに導き出すこともできるのではあるまいか。さらに「あたりまえ」などという表現。むろん、これは「当然《タンラン》」という中国語に由来するのであろうが、「当《ま》さに然《しか》る」の「然《ヽ》る」が日本でどうして「前」になってしまったのだろう。それは単なる同音によったものなのか、それともそこに日本人特有の空間感覚が働いたのか。  あるいは、最近、若い世代で口癖のようになっている「とか」という副助詞。私は学生と数分話している間に、その学生が「とか」という言葉を何十回となく連発するのに閉口したことがある。試みにいくつかの辞典を引いてみたが、のっておらず、『古語辞典』(岩波書店版)にも見当たらない。『日本語大辞典』(講談社版)は、「並べあげる意を表す」とあり、たしかにその通りなのだが、では、どうして近ごろの若者たちは「並べあげる」ことに、そんなに意を用いるのだろう。こうなると、それは最早《もはや》、社会心理学の領域に属すことになるだろう。  いや、こんなふうに「並べあげて」いったら、それこそきりがない。だから私の「根ほり葉ほり」は本書で終わったわけではない。今後も折りにふれては、気になる言葉、ふと気付いた言葉を、いろいろな角度から検討してみたいと思っている。 [#改ページ] 目 次  まえがき  けじめ [#この行3字下げ]語源も分からない「けじめ」を、つけろといっても、つけられるわけがない。日本人はすべてをあいまいにする術をみがいてきたのだから。  そこをなんとか [#この行3字下げ]「そこ」とはどこで、「なんとか」とは何なのか。この表現の中に、すべては完全でないと考える日本人の性格がそのまま表現されている。  厳粛に受けとめる [#この行3字下げ]世間体を大事にする日本人は、不正を糾弾されると、何よりもまず、世間に対して神妙なポーズを見せる必要があるのだ。  イメチェン [#この行3字下げ]カタカナ英語さえ使えば当世風、という感覚で、日本は、独自の文化を世界にどう知らしめるというのか?  べつに…… [#この行3字下げ]最大級の形容詞が氾濫する�から騒ぎ社会�。その裏で、何を言っても「べつに……」という無関心世代が登場しつつある。  その辺のところ [#この行3字下げ]矛盾に満ちた現実に器用に順応する日本人の代表的表現。このファジー理論はいまやコンピューター分野でも活用され出した。  お茶を濁す [#この行3字下げ]「茶」を引き合いに出した言葉は多いが、その大半が�茶化した�ニュアンスを持つ。日本文化を代表する風雅の道「茶道」の不まじめとの結びつきは?  おしゃれな [#この行3字下げ]「ナウい」「カッコいい」「トレンディ」「おしゃれ」……ああ、日本伝来の「いき」や「しゃれ」の持つ深い意味はどこに行ってしまったのか。  結構きますよ [#この行3字下げ]失敗や期待外れに対して、たいへん臆病な日本人。そのための心理的な防御策として「結構」という副詞はなかなかききめがある。  前向きに善処します [#この行3字下げ]とは言うが、本当に前方を指しているのか? まえは「あと」になり、あとは「まえ」になる。日本人独特の空間感覚!  死語累々 [#この行3字下げ]これまで行動の基準、倫理の規範とされてきた言葉はほとんど死語と化した。これから先、どうなるのか。  独断と偏見 [#この行3字下げ]日本人は自分の主張が「独断」といわれ「偏見」と攻撃されるのをやたらに恐れる。が「世間の常識」の範囲を計る物差しはどこにあるのか。  要約すると [#この行3字下げ]思ったことを話すように書けば文章になるなら世話はない。話し言葉と書き言葉の違いさえ理解できない人間に、主旨を要約することなんて無理な話。  ら・り・る・れ・ろ [#この行3字下げ]「ルンルン」「リンリン」「ランラン」……、日本人はラ行が大好き。これは日本人の生理的リズム感に由来するのではないか。  文化人 [#この行3字下げ]「文化」の何たるかを考えず、やたら「文化」をふりまわす日本人。いったい、�文化人�とは、いかなる人種なのか?  きたない [#この行3字下げ]気になるのは自分の一メートル四方だけ。そこさえ清潔なら、あとはお構いなし。美をとうとぶという日本人論なんて、まったくの錯覚だ。  人間 [#この行3字下げ]人と人との「あいだ」を重視し、共同体と個人とを一体化せずにはいられない日本特有の時・空形式が、この言葉にも秘められている。  手心 [#この行3字下げ]手のうち、手ごたえ、手を焼く、手を尽す……、日本人は手にすべてを託す。自分の心まで。「手心」という言葉がそれを正直に語る。  国 [#この行3字下げ]まわりを海にかこまれ、他国と直接に境を接することがない日本は、「クニ」について深刻に考えずにすんだ。それだけに、この言葉は猛威をふるうと始末におえない。  ただの鼠 [#この行3字下げ]「ただ」という言葉の持つ多様な意味。この言葉から日本人の正体をあばき出すことさえできそうだ。  だからどうなんだ! [#この行3字下げ]「説明」と「叙述」。日本人はこのふたつを器用に使い分ける。だがその境界は、きわめて微妙。だから外国人には異質と映るのだ。  なーんちゃって [#この行3字下げ]この一言で、偉そうな意見や、説法はたちまち虚構となる。これこそ、日本的なユーモアの真髄だ。  カンケイナイ [#この行3字下げ]やたらに小人数の仲間意識が強く、それ以外はすべてカンケイナイ。こんなことで、日本はいつまで�蚊帳の内�にいるつもりか。  ア・イ・ウ・エ・オ [#この行3字下げ]「母音」は、最も発しやすい音声の基本。だから日本人は母音を存分に活用する。  根ほり葉ほり [#この行3字下げ]根にこだわると同時に葉に重きをおく民族。日本人のこの特性。それは、けっして「根も葉もない」ことではない。  あとがき [#改ページ] [#小見出し]  け じ め  私は新聞を六紙とっている。毎朝、郵便受けに行って、新聞を取り出すのが、ひと苦労である。どの新聞にも、折り込み広告が新聞と同じくらいの厚さで入っているから、両手で抱えてこなければならない。  しかし、それ以上に苦労するのは、なんといっても、その新聞の全部に目をとおすことである。隅《すみ》から隅まで読めば、半日はたっぷりかかるだろう。とてもそんな時間はないので、忙しいときには見出しだけですましてしまうことも多い。そして、読む必要のある記事は、切り抜いておく。その切り抜きにも、けっこう時間がかかるが、私はどういうわけか、せかせかと読むことが嫌《きら》いなのだ。読む以上は、じっくり読みたい。そこで、切り抜いて項目ごとに分類し、後でくわしく読み返そうと思うのだが、今度は切り抜きが山のようになって、結局、読まずじまいになってしまう。なんのことはない、切り抜きは気休めにすぎないわけである。  情報化社会というのは、まあ、こんなもんだろう。私は、ときどき、自分が、印刷物の上で踊っているピエロのように思えてくる。それだけではない。テレビというヤツがある。最近では衛星放送が加わったので、二十四時間じゅう世界のニュースを画面に映し出す。それに付き合っていると、しまいに何が何だかわからなくなってくる。私は情報に押しつぶされるほど弱い人間だとは思っていないが、それにしても、日本をはじめ、世界がこうも目まぐるしく変わり、事件を続発させると、思わずそれに巻き込まれ、落ち着かないこと、おびただしい。  べつに株をやっているわけではない。マス・メディアの仕事にたずさわっているのでもない。いっそのこと、テレビも、新聞も、放り出してしまおうとも思ってもみるのだが、長年、新聞記者をしていたせいか、どうしても世の中の事件に無関心ではいられなくなってしまった。つくづく因果なことだと、溜《た》め息がでる。しかし、これが現代人の宿命なのであろう。  新聞社をやめた今では、思いのままのんびりできるはずなのに、そんなわけで、私は年じゅう、いらいらしている。原因は、たんに情報が洪水《こうずい》のように押し寄せてくるというだけではなく、その情報がすんなりと頭に入らないことにもある。なぜ、すんなり頭に入らないのかというと、まず、つぎつぎに起こる事件が、およそ複雑怪奇で、簡単に解けないからである。が、それに加え、出来事を伝える言葉が、わかっているようで、じつはよくわからない、そんな言葉の氾濫《はんらん》のせいである。  たとえば、あのロッキード汚職やリクルート事件の際、新聞やテレビで毎日のように使われた「けじめ」という言葉がそうだ。これほど、ひとつの言葉が繰り返し報道された例は、かつてないといってもいいくらいである。いうまでもなく、これは、事件の後始末をどうつけるかについての論議の中で、さかんに持ち出された日本語である。自民党のなかには「けじめ委員会」なるものまでつくられた。  とうぜん、この政界汚職事件は世界に伝えられることになったが、外国の特派員が一様にとまどったのは、「けじめ」とは何か、どう訳したらいいのか、ということだったらしい。その証拠に、アメリカの新聞では、「けじめ」を"kejime"と、日本語そのままに使ったという。  そんな話を聞いて、なるほど、と思った。「けじめ」を英訳するとしたら、いったい何と言い換えたらいいのか。試みに和英辞典をひいてみたら、"difference"とあり、「けじめをつける」は、"distinguish between ..."となっていた。  つまり、「違い」ということであり、「(あるものからあるものを)区別する」というわけである。  しかし、どう考えても、日本語の「けじめを|つける《ヽヽヽ》」と「区別する」とでは、意味が違う。だが、どこが、どう違うのか、となると、おそらく日本人でも容易に答えられまい。  そこで、こんどは日本語の字引きを持ち出して「けじめ」の項を調べてみると、「㈰区別。わかち。わけめ。㈪へだて。しきり」(『広辞苑』第三版)と出ていた。  では、リクルート事件の「けじめ」という表現を、この辞書に即して言い換えてみると、どういうことになるか。「リクルート事件の区別、わかち、わけめ、へだて、しきり」となり、これでは日本語として、まったく意味をなさないことになる。  とすれば、さかんに使われた「けじめ」という言葉には、それとは、いささかニュアンスを異にする意味が、暗黙のうちにこめられているということになろう。だから、アメリカの新聞記者は、"distinguish"を使わずに、あえて日本語そのままに"kejime"と書いたのである。  では、そのニュアンスとは何なのか。  そもそも「けじめ」という日本語は、いつごろから、どのように使われだしたのだろう。『広辞苑』によれば、すでに『伊勢《いせ》物語』や『源氏物語』に使われている、とあるが、だいたい日本語の辞書は、語源について、ほとんど触れていないから、この言葉が何に由来するのかわからない。国語学者は、わからないものに手を出したがらず、批判を恐れて仮説をたてることもしないので、日本語の語源には定説がない、といってもよく、したがって、言葉の意味が充分に明らかにならない。  日本語があいまいな性格を持つと言われるゆえんは、そんなところにもあるのだろう。なぜなら、言葉の意味は、その言葉が、どのようないきさつから生まれ、変化し、慣用となって今日に至ったか、その歴史の堆積《たいせき》に凝縮されているはずだからである。  そんなわけで、「けじめ」という言葉の語源もわからない。ただ、いくつかの語源辞典には、こんな解釈がなされている。 「けじめ」の「け」とは、「別《わ》けて送り出すの意」であり、それに「チ」と「(結びめの)メ」が合わさったもの(井口丑二『日本語原』)。また、「分目《わけめ》の転とも、異路目《ケシメ》の義」(賀茂百樹『日本語源』)などとも説かれている。  さらに、『日本語語源辞典』(藤堂明保監修・清水秀晃著)によれば、「けぢめ」の「け」とは「分段の意」であり、したがって「けつめ(段《け》つ目《め》)」の転か、とある。  私には、どれが正解なのかわからないが、いずれにせよ、段落を分かつ、というところから、「けじめ」なる言葉が生まれたらしい。つまり、ものごとに節目《ふしめ》をつける、の意なのであろう。  ところが、それが、江戸時代になると、もっぱら、差別を意味するようになり、「けぢめを食《くら》ふ」というような庶民語になっていったようだ。すなわち、㈰疎外《そがい》し卑《いや》しめられる。差別待遇をされる。㈪とがめられる。こごとを言われる。文句を言われる。とっちめられる。といった意味である。(前田勇編『江戸語大辞典』)  そうした江戸語が、現代になると、意味がまたまた変わって、むしろ、「区切り」「区別」という語義とされるようになったわけだが、それにしても前記のように、「けじめをつける」と、「区切りをつける」とでは、やはり、ニュアンスが違う。たしかに、リクルート事件のけじめをつけよ、という要求には、「とがめる」「文句をいう」の感情がこめられているが、それは、この言葉が使われる状況からみて、そう思われるだけであり、「けじめをつける」という日本語そのもののなかには、そうした叱責《しつせき》は含まれていない。  さて、そうなると、この「けじめ」なるものは、どう解釈したらいいのだろう。なぜ、日本人は、この言葉を乱発するようになったのか。  端的にいうなら、日本人は、よほどのことがない限り、「けじめ」に重きをおかず、すべて、ものごとをあいまいにして、それで|何となく《ヽヽヽヽ》すませてきた、ということなのではあるまいか。  げんに、「けじめをつけろ」と言うほうも、言われるほうも、何が「けじめ」なのかわかっていないように思われる。だから、一方では「けじめをつけた」と言い、他方は「けじめがついてない」と言って論議が空転することになるのだ。  字引きを引いて意味を調べてもよくわからない日本語が、政治論争のキーワードとなり、さらに一般の世論を支配する——なんとも奇妙な風景ではないか。この言葉をさかんに用いるマス・メディアでさえ、その定義をきちんとしていない。ただ、なんとなく、情緒的に、それぞれのイメージで、「けじめ」を乱発しているようにみえる。  私がいらいらするのは、こうした言葉のあいまいさ、それに由来する情報のあいまいさなのである。  何かを論ずる場合には、まず、言葉の定義が必要である。同じ言葉を、それぞれが勝手に解釈して議論してみても、時間の空費でしかない。  もちろん、普通の話し合いに、哲学や法律論議のような厳密な定義は、求むべくもない。けれど、あまりに漠然《ばくぜん》とした言葉を投げ合い、それで、互いに話が通じているような錯覚《さつかく》に陥っている情景は、どう考えても喜劇的である。だが、日本人は、厳密な定義から出発することが苦手であり、また、そんなことを好まない。そこで、すべてのコミュニケーションが上滑りで終わり、一知半解のまま処理されてしまうのである。  ものごとの理解には、分析的と総合的のふたつの方法がある。日本人は、それを昔から知っていたはずだ。その証拠に、理解したときに「|分かった《ヽヽヽヽ》」といい、納得したときには「|合点がいった《ヽヽヽヽヽヽ》」と言うではないか。 「分かった」とは、問題が分《ヽ》析されて理解された、ということであり、「合点《がてん》」とは、総|合《ヽ》的に判断を下して了解する意味である。にもかかわらず、その分析も、総合も、つねに中途|半端《はんぱ》で、それ以上追求しようとしない。  たとえば、奥に何かがあって、それをはっきりと確かめようと思いながらも、けっして、とことんまで突きとめず、その手前で立ち止まってしまう、それを日本人は「おくゆかしい」とする。「おくゆかしい」とは「奥に行かま欲し」という気持ちを、一歩手前で押しとどめること、にほかならない。「あからさま」とは、「はっきり、明瞭《めいりよう》に」ということだが、こういうことも日本人は嫌う。ものごとを明らかにするより、間接照明のように、ぼおーっとさせておくことを好むのだ。  たとえば、大和心《やまとごころ》を論じた本居宣長の神の観念も、きわめて広く、その本源ともいうべき高御産巣日神《タカミムスビノカミ》、神産巣日神《カミムスビノカミ》という二柱の神も、「二柱にして一柱の如く、一柱かと思へば二柱にして、其ノ|差ノ髣髴《ケヂメオホホ》しきは、いと深き所以《ユヱ》あること」としている。つまり、彼は「けじめ」のぼんやりしていることに深い意味を見ているのである。  だとすれば、そのような日本人に、「けじめ」が容易につくはずはあるまい。私は知り合いのアメリカ人に「日本人はケジメ|レス《ヽヽ》だ」と言われ、苦笑したことがある。「ケジメレス」とは、日本語の「けじめ」と、英語の否定の接尾辞 less を合成した彼の造語である。何と言いえて妙ではないか。  毎日、洪水《こうずい》のように襲ってくる情報の波のなかで、私がいらいらするのは、じつは、日本人のそうした「ケジメレス」のゆえではないかと思う。 [#改ページ] [#小見出し]   そこをなんとか  四十年来、住みついていた家を建て直すことにした。なにしろ、戦後まもなく建てた家なので、とうてい半世紀に耐えられない。軒は傾き、屋根は剥《は》がれ、ひどい有様となった。それだけなら部分的に修理して済ますことも不可能ではないのだが、この間に増えつづけた本の重みに、階下の建具が動かなくなる始末である。地震でもきたら、ひとたまりもない。  というわけで、ついに意を決して住居を一新することにしたのだが、そのためには、何か月かのあいだ、仮住いをしなければならない。さいわい、家の近くに格好の借家がみつかったので、とりあえず、そこに引っ越すことにきめた。  若いころは何度も転居した。そのころは、それほど苦にならなかった。荷物が少なかったからである。『方丈記』ではないが、荷車一台で充分だったのだ。ところが四十年も住み慣れてしまうと、引っ越しも容易でない。くだらぬ家具はけっこう増えているし、それに、なんといっても本である。借家にはとうてい収まらない。やむなく倉庫に保管してもらうことにしたのだが、さて、そうなると、どの本を手元に置き、どんな書籍を倉庫に預けるか、その選別に困《こう》じ果てた。  結局、最後はいい加減に指示して、片っ端からダンボール箱に詰め、目をつぶって送り出した。  転居先は新しい様式の便利な造りになっているから、旧居より、ずっと住み心地がいい。ところが、人間は習慣の動物だから、やはり落ち着かない。いちばん困ったのは、机の周辺である。本の位置が違うと、辞書一冊取り出すにも手間がかかる。本箱に書物を手あたり次第詰めこんだので、芭蕉《ばしよう》の隣にプラトンが、プラトンの隣にサド侯爵《こうしやく》が並ぶ、という始末である。まるで、ジグソーパズルのようなものだ。どこにどんな本があるのか、その都度、えらい時間をかけて探し回らねばならぬ。  しまいには|あきらめて《ヽヽヽヽヽ》、記憶だけを頼りに原稿を書くことになった。これが一年近くも続くのかと思ったら、ガク然とした。しかも新居ができれば、その時に、また引っ越さねばならない。そう考えると、いよいよ暗澹《あんたん》となったが、おそらく、そこが終《つい》の栖《すみか》になるだろうから、と自分にいい聞かせて、不便をしのいだ。  それにしても、最近、引っ越しは、ずいぶん便利になったものだ。専門の業者が、競争でサービスしてくれるので、こちらは、ただ指示するだけですむ。ところが、昔と違って、物がやたらに多くなったからたまらない。江戸時代の庶民と比《くら》べれば、いや、明治の頃《ころ》と比べても、一般家庭の物の数は、ざっと十倍に増えているのではあるまいか。こうなると、便利が逆に不便をもたらす、ともいえるわけで、文明とは、まことに皮肉なものだ。  葛飾《かつしか》北斎は一生のうち、九十三回も転居している。ベートーヴェンも、北斎におとらず居を変えたそうだ。というのも、身辺にさして運ぶものがなかったからだろう。彼らは物のかわりに、ただ、偉大な芸術の才能だけを、身体ごと運んでいくだけですんだのである。  話がだいぶ横道にそれてしまったが、じつは、仮住いの新居で、ダンボール箱の間に寝ころびながら、「引っ越し」という日本語をあらためて考えさせられたのである。転居をなぜ「引っ越し」というのだろう。何を引いたり、越したりするのか。  そこで、あちこちを探し、辞書を引きずりだして調べてみたら、「引っ越し」とは、もともと「引き越す」で、「引いて越える」の意であることを知らされた。が、何を引いて越すのか、については説明されていない。おそらく、いくばくかの家財を荷車に積んで引き、ある地区から他の地区へ越えることから、転居を「引っ越し」というようになったのであろう。前記、長明の『方丈記』には、住まいは方丈で足りる、もし、気に入らなければすぐに引っ越せるからだ、とある。 「積むところわづかに二両」、その車賃《くるまちん》さえ払えば、さっさと、どこへでも引っぱって行って移れるではないか、と彼はいうのである。  引っ越しで、もうひとつ、思い出したシーンがある。漱石《そうせき》の『三四郎』だ。そのなかに「偉大なる暗闇《くらやみ》」こと「広田先生」が引っ越すくだりがある。この時は弟子の佐々木与次郎と三四郎、それにヒロイン美禰子《みねこ》が引っ越しを手伝っている。広田先生も、車に書物とわずかな家財を積んで、車屋に運ばせた。その荷を手伝いの三人が受け取り、本の整理に汗を流す場面である。おもしろそうな書物が出てくると、三四郎は思わず座りこんで読みふけってしまい、与次郎に「あとでゆっくり読め」と怒られたりしている。  私も同様だった。床に散乱する書物を眺《なが》めて茫然《ぼうぜん》となり、そのうち、ほう、こんな本があったのか、などと興を引かれて読み始め、そのまま日が暮れてしまう始末だった。そんなわけで、いつまでたっても整理はつかない。考えてみると、今の世にいちばん難しいのは、書物の分類ではなかろうか。  ところで、足の踏み場もない床の上に、すぐ目についたのが、その漱石の全集だった。朱色の地に中国の金文を緑色であしらった表紙は、もう何十年と見慣れたものだからである。そこで、何冊かページを繰って読みちらしていると、彼の小説にやたらに、金を借りたり、借金を頼まれたりするくだりが多いのに気がついた。いまとくらべ、あの頃の生活はきびしかったんだなあ、と、あらためて思い知らされたのだが、そのとたん、「そこをなんとか」という言葉が胸に浮んだ。  日本人は人に頼みごとをして断わられると、きまって「そこをなんとか」と執拗《しつよう》に迫る。私自身、そう言って頼みこんだ覚えがあるし、そう言われて頼まれた記憶もずいぶんある。  そういえば、ある席上で、歴史学者の木村|尚三郎《しようさぶろう》氏と雑談していた折り、たまたま話が言葉の問題に及んだとき、氏は「そこをなんとか」というのは日本的な言葉ですね、と笑いながら言ったのを思い出した。おそらく、木村氏も、あちこちからいろいろな依頼があって、そう言われると断わりきれず、おおいに辟易《へきえき》したに違いない。たしかに、この言葉の威力は大したものだ。その一言で頼まれた人は無理をしても、つい、引き受けてしまう破目になるからである。日本人の特質は�義理と人情�にあるといわれるが、「そこをなんとか」という表現こそ、まさにそれを凝縮したものではないか。  ところで、考えてみると、「そこをなんとか」という言い方は、きわめてあいまいである。「そこ」とは何をさすのか。「なんとか」とはどういうことなのか。おそらく、これをそのまま外国語に翻訳したら、まったく意味をなさないだろう。いや、意訳しても通じまい。だいいち、意訳のしようがない。強《し》いて説明するなら、「あなたはそのような理由で拒絶なさるが、その理由をもう一度考え直して、私の要求に応じてくださるまいか」とでも言うほかあるまい。  しかし、外国人が理由を挙げて頼みを断わる場合は、「だから、私はあなたの願いをお引き受けするわけにはいかない」という確固たる立場を表明しているわけで、したがって、もうそれ以上いくら頼んでも、応じてくれる余地はない。相手の要求を容《い》れる余地がないからこそ、当人は断わったのである。  ところが、日本人は義理人情にからまれて、どんなに明白な拒絶の理由があろうと、相手に熱心に頼まれたら、それを|むげに《ヽヽヽ》断わるのは、何か気がひけるように思ってしまう。われわれはそれを「義理と人情」のせいにするが、もともと義理と人情とは、正反対の概念なのである。「義理」とは、|正当な理《ヽヽヽヽ》のことであり、「人情」とは、その|理を解きほぐす情《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を意味する。このように、正反対のものを一緒にし、折衷《せつちゆう》して、日本人はそこに独特の判断領域を設定するのだ。それは、別言すれば「情状|酌量《しやくりよう》」といってもよい。つまり、一切のことがらは、それ自体完結しているのではなく、時と場合に応じて、伸縮自在の形をとっているわけである。  だから、日本人のノーは、けっして絶対的な否定ではなく、その一部にイエスを含み、イエスは、その中にノーの要素を併せ持っている。「日本人の不可解な笑い」といわれるものは、その時その時の、こうした判断から生まれているように私には思われる。それを勘案するあいだ、日本人は微笑しているのである。とうぜん、外国人には、それが狡猾《こうかつ》な|ごまかし《ヽヽヽヽ》のように映る。けれど、日本人は、これこそが人情、すなわち、もっとも人間的な対応、とみなすのだ。  じっさい、「そこをなんとか」という表現の中には、日本人のものの考え方が、じつによくあらわれている。その考え方とは、すべては完全ではない、ということだ。そこで、頼むほうも、頼まれるほうも、いくばくかの部分が必ず保留されていることを前提に話し合う。したがって、あと、どのくらい可能性の余地があるか、その�残された部分�を両者は見きわめようとし、この言葉が頻出《ひんしゆつ》するわけである。  日本の絵画の特質に�余白�の美というのがある。それに対してイスラムの芸術は、まったく逆で、空白への恐怖とも思えるほど、びっしりと空間を埋めつくす。モスクの絢爛《けんらん》たる装飾に、それがよく現れている。  もともと砂漠《さばく》の民であるアラブ人は、けっして妥協の余地を認めない。それが、こうした芸術の性格にも表現されているのではなかろうか。  ところで、日本人の好む�余白�だが、これは言うまでもなく、可能性を意味する。画家は、そこに何かを描こうと思えば、いくらでも描き足すことができるのだ。しかし、彼は描かない。描かないことによって、鑑賞者にその部分を預ける。�余白�とは画家と鑑賞者の共有の空間なのである。そして�余白�をそれぞれが、想像によってどのように埋めるか、当の作品は作者と鑑賞者、双方の�せめぎあい�にかかっている、といってもよかろう。「そこをなんとか」することにより、日本の芸術も、その価値を決められるわけである。  見方を変えるなら、それは「甘え」と思われなくもない。「そこをなんとか」と言えば、最後には何かが出てくる、と期待するのであるから。だとすれば、�余白�の美とは、「甘え」の美、ともいえるわけで、作者は残りの空間を相手に委《ゆだ》ね、鑑賞者はそこを勝手に想像することで、作品を完成させるのだ。  けれど、さらに視点を移してみると、それはある種の�自由�であり、�寛容�であり、�希望�ですらあるといえよう。日本人は、きめつけを好まず、いつも融通無碍《ゆうずうむげ》な可能性《ヽヽヽ》を残しておこう、とつとめるからだ。  それは、楽観的なのだろうか。それとも、最初から完全を期待しない悲観論なのか。外国人から見た日本人の性格のあいまいさは、私たちがいつも残しておく、こうした可能性にあるのだと思う。 「そこをなんとか」という日本的な表現。それは、ものごとは常に不完全であり、真理はイエスとノーの間にある、という仏教的な観念に由来するようにも思われる。そうなると、この慣用的な表現、日本人が無意識のうちに使っているこの言葉は、意外に哲学的命題を暗示していることにもなろう。  私は、乱雑に散らばった本の山の間に座りこんで、「そこをなんとか」といった表現を登場人物によくいわせている漱石は、やはり日本的な作家なんだなあ、と、あらためて思い知った。  だから、お札《さつ》にまで刷られたのだ。そして、この日本的表現の中に、日本文化の本質が、こっそりかくされているのを痛感させられたのだった。 [#改ページ] [#小見出し]   厳粛に受けとめる  外国で、たとえば自動車事故などを起こした場合、絶対にあやまってはいけない、と忠告されたことがある。今は、ほとんど常識になっているようだが、私が最初に海外へ出かけたのは、もう三十年も前のことだから、そんな注意を聞いて、じつに奇妙な気がしたことを、よく覚えている。  じっさい、そうなのである。何かトラブルが発生すると、日本人は、いとも気軽に詫《わ》びてしまう。が、異国人は、めったにあやまらない。あやまるのは、自分の非をすすんで認めることだからである。  外国人は、たとえ自分の側に非があると思っても、まずは自分の主張を強弁し、ときには、横車としか思えないような理屈で、非を相手に押しつける。そして、是非は裁判で争おうというわけだ。私がアメリカで異様に思ったのは、何から何までが弁護士の出番になるということだった。  その影響を受けてか、日本でも、近|頃《ごろ》は、すぐ弁護士に依頼するようになった。それでも、日本人は昔ながらの習慣で、できればあやまって事を穏便《おんびん》に済ませようとする。あやまれば相手は許してくれる、と心の奥底で期待しているからだ。  たしかに、日本人は、あやまることが大好きだ。というのが言い過ぎなら、あやまることを、それほど苦にしない、と言いかえてもよろしい。おそらくそれは、この国の社会が同質的であり、互いに気心が知れているからであろう。そこで、あやまりさえすれば許してもらえる、と、つい、そう思ってしまうのである。  事実、あやまらないと、争いはいよいよこじれ、外国とは逆に、取り返しがつかないことになる。日本人は、事の是非よりも、むしろ当事者の「誠意」のほうを問題にする。「論より証拠」などというが、証拠を詮索《せんさく》するより、情に訴えるほうを選ぶ。だから、「論より情《なさけ》」というほうが当たっていよう。  もう、ずいぶん前のことだが、何かのゲームをしていたとき、私はヘマをやった。「ごめん、ごめん」といって許してもらおうと思ったら、相手のひとりが「ごめんで済むなら警察はいらない」と言った。そのころ、そんな文句が常套《じようとう》語になっていたのである。  相手は、そう言いながらも許してくれたのだが、そのとき、私はあらためて、なるほど、と思った。たしかに、あやまりさえすれば、すべてが許されるとしたなら、世話はない。この言葉は、あやまり好きの日本人の甘えに対して、冷水を浴びせた名言というべきであろう。  しかし、そうは言いながらも、「ごめん」が通用するところに、日本の社会の、よく言えば寛容さがあり、悪く言えば�いい加減さ�があるのではあるまいか。  なぜ、日本で「ごめん」が簡単に通用するのだろう。それは、「ごめん」という謝罪の言葉が、事の真相をはっきり突きとめたうえで自分の非を認め、その非に対して詫びるというより、事態が深刻化するのを恐れて、とりあえず相手の気持ちをやわらげておこうという目的で使われ、相手もそれを充分承知しているからである。つまり、日本人の「ごめん」は、罪の意識をほとんど含んでいないのだ。 「ごめん」にかぎらない。日本人が乱発する詫びの言葉、「すみません」にしても、「申し訳ない」にしても、その意味を考えてみれば、最大級の謝罪の表現である。にもかかわらず、日本人はこれらの言葉を慣用語として多用し、そう言いながら、まるで自分の非を認めていない。したがって、これらの言葉は、謝罪語というより、挨拶《あいさつ》語とみなすべきであろう。  言葉は時代につれて変わる。謝罪の言葉も最近ではいろいろ工夫され、パターン化されるようになった。そのひとつに「|世間をお騒がせして《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」というのがある。  テレビなどで深刻な顔をして、この言葉を繰り返し、深々と頭を下げる情景を見せつけられるたびに、私はなんとも奇妙な気がする。まるで、世間を騒がせたので悪かった、と言っているかに見えるからである。むろん、当人もそう思っているに違いない。  しかし、世間を騒がせることが悪いというなら、お祭りや、このところ大はやりのイベントなどは、�悪の見本市�になってしまうではないか。なぜなら、これこそ世間を大騒ぎさせることを目的としているからである。そのように、世間を騒がせるものを、さらに増幅させるマス・メディア、新聞、テレビ、週刊誌などに至っては、悪の最たる機関ということになろう。  もうひとつ気になるのは、「|厳粛に受けとめる《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》」という言葉である。ことに、この表現は公《おおや》けの立場にある人間が、やたらに使う。たとえば、裁判などで公的立場にある側が敗れたときや、汚職などで人々の厳しい批判を浴びたりすると、彼らはいちおう深刻な顔をしてみせ、「厳粛に受けとめる」とくる。私はこの表現を耳にするたびに、ああ、またか、と思う。  いったい「厳粛に受けとめる」とは、どういう意味なのだろう。あらためて、そういうところを見ると、ほかの場合は「厳粛に受けとめない」ということなのだろう。ほかの場合とは、いくら批判を浴びても、自分たちに何の影響もないとき、あるいは、どうにでも言い逃れができると思っているようなケースである。つまり、自分たちに都合よくいっているときには、どんな批判を浴びても、けっして「厳粛に受けとめ」たりはしない、ということなのだ。  とすれば、「厳粛に受けとめる」とは、良心がそう言わせるのではなく、世間に向かって、ただ神妙な顔をしてみせるポーズにすぎない、ということになろう。そう考えると、「厳粛に受けとめる」という表現は、何とも傲慢《ごうまん》な宣言《ヽヽ》に思えてくる。  げんに、「厳粛に受けとめ」ても、そのあと、どうしようというのか、責任のとり方については、いっさい言及されたことがない。ただ、「受けとめ」ているだけなのである。  これで謝罪《ヽヽ》の意を表明したことになるのだから、日本の社会は、何とも甘いものだ。  かつて、私は「良心」という言葉の意味について、法律の関係者に聞いてまわったことがある。この言葉は憲法第一九条に「思想及び良心《ヽヽ》の自由は、これを侵してはならない」というのをはじめ、司法の項にも「すべて裁判官は、その良心《ヽヽ》に従い」(第七六条=傍点引用者)と記されている。法律家は言葉の意味を厳密に解釈し、審議する専門家であるから、「良心」という言葉には、きっと明確な定義があるにちがいない。そう思って、それを何人かに尋ねてみたのである。  ところが、驚いたことに、誰ひとり、はっきりとした答えを与えてくれなかった。それどころか、ある弁護士は「こんなあいまいな概念は自分にもわからない」と言ったのである! 日本には「良心」の定義すらないのだ。  にもかかわらず、証人が証言する際には、「良心に従って本当のことを申し上げます」と言わなくてはならない。そして、そう言いながら虚偽の陳述をすると、「偽証」の罪にとわれることになる。  私は偽証罪とは、良心に背いた罪だと思っていた。ところが、彼によれば、そうではなくて、「裁判所に誤った資料を提出する結果になるということで罰せられる」のだそうである。その弁護士は笑いながら、こう言ったものだ。 「だから、〈良心に従い〉などという文句は、まあ、枕《まくら》ことばのようなもんですな」 「良心」という言葉を『広辞苑』(第三版)でひいてみると、「何が自分にとって善であり悪であるかを知らせ、善を命じ悪をしりぞける個人の道徳意識」とある。おそらく、裁判官の解釈も、だいたい、こんなものなのであろう。じっさい、それ以上に意味を詮索していったら、倫理学か哲学の領域に入りこんでしまう。善とは何か、道徳意識とは何か、についてくわしく分析しなければならなくなるからである。  それにしても、日本人は、「良心」なる言葉を多用するわりに、その本質について、ほとんど考えていないようだ。そこで、「良心に従って本当のことを申し上げます」などと言っても、誰も信用していないのである。その好例が国会での証言であろう。かつて、「良心に従って」真実が申し立てられたことがあったろうか!  もう、さんざん言い古されたことであるが、日本人にとって何より問題なのは、神さまではなくて、「世間」さまのほうなのである。だから、かつて、アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトが言ったように、日本の文化は、世間に対する「恥の文化」であり、それに対して西欧のそれは、神に対する「罪の文化」とみなされているのだ。  むろん、彼女がそう規定したのは半世紀も前のことであり、その後、日本人の価値観も、おおいに変わった。いまや「恥」などという言葉は死語同然になり、逆に「破廉恥《ハレンチ》」がもてはやされるご時世である。とすれば、日本文化は、もはや「恥の文化」などとはいえそうにないが、にもかかわらず、日本人の意識が、依然として「世間」さまだけに顔を向けている実情からすれば、やはり、体面、というより、体裁《ていさい》しか重んじない文化、とみなされても仕方あるまい。  そこで、『広辞苑』にある「良心」の定義を、あらためて考え直す必要があろう。そこには前記のように「何が|自分にとって《ヽヽヽヽヽヽ》善であり悪であるかを知らせ、善を命じ悪をしりぞける|個人の《ヽヽヽ》道徳意識」という解釈がなされている(傍点引用者)。考え直すべきは、「自分にとって」と、「個人の」という箇所だ。つまり、良心とは世間に向けた顔ではなく、道徳とは外面的なものではない、と、この定義は強調しているのである。  ところが、日本人の意識には、相変わらず�世間�が大きなウエイトを占めている。だから、まちがいを指摘されると、何よりもまず、その批判を、「厳粛に受けとめる」ポーズが、世間に対して必要なのであり、相手の非難を素直に認めておく、それが「ごめんなさい」の意味になるのだ。  しかし、そもそも、「ごめん」というのは、お上から許可される、ということであり、そこから、「天下御免」などという権力をカサに着た振るまいが、まかり通ってきた。したがって、「ごめん」と言いさえすれば、大手を振って闊歩《かつぽ》できることになる。  とうぜん、ここには罪の意識など毛頭ない。だから、「ごめん」という言葉の中には、今もなお、世間に向かって、オレは許されているんだぞ、というニュアンスが含まれているのだろう。日本人が、いとも簡単に「ごめん」を連発しながら、自分の非をあまり意識しないのは、そのゆえなのである。 「厳粛に受けとめる」という表現の中には、そうした「ごめん」の意識が見え隠れしている。ことに、エライ人たちが使うと、よけいそう見えるのは、まさに、そのような「ごめん」の由来を正直に語っているといえよう。  この意味で、「ごめんで済むなら」というあの言葉は、その正体を衝《つ》いた名言というべきであろう。ただし、警察官が|良心に従って《ヽヽヽヽヽヽ》行動するかぎりにおいて、と、つけ加えておく。 [#改ページ] [#小見出し]   イメチェン  いつだったか、かなり前のことだが、ある朝、新聞を開いて、「なんだ、これは!」と思ったことがある。社会面のまん中に、大きな見出しで、「イメチェン」というカタカナが使われていたからである。  たしか、「○○が大きくイメチェン」といった文句だったので、この言葉が固有名詞でないことは、あきらかである。おそらく、動詞に違いないが、私の記憶する外国語で、そんな動詞は見たこともなかった。  しかし、記事を読んだら、謎《なぞ》はすぐ解けた。イメージ・チェンジ、つまり、イメージを大きく変える、ということなのである。それを略して、「イメチェン」としたのだ。私は思わず笑った。だいいち、イメージ・チェンジなどという英語はない。あえていうなら、チェンジ・オブ・イメージとすべきなのに、それを勝手に作り変えてイメージ・チェンジとし、おまけに略して使うというのだから、念がいっている。  日本人の言語感覚が、いかにでたらめであるか、このヘンテコな�英語�が、なにより正直に語っていよう。  ついでにいうなら、これも日常よく使われる「イメージ・アップ」だの、「イメージ・ダウン」などというのも、まぎれもない和製《ヽヽ》英語である。日本人は造語の天才というべきか、あるいは一知半解で得意になっているというべきか、それは、奈良時代以来の伝統である。  当時、中国からたくさんの漢語が入ってきたが、日本人はなぜか、原語をそのまま受け入れず、日本流に変えて使用した。  たとえば「紹介」は、中国語では、「介紹」である(但《ただ》し中国語でも「紹介」の例が全くないわけではない。以下同)。同じように「制限」は「限制」、「素朴《そぼく》」は「朴素」、「様式」は「式様」、「静寂」は「寂静」、「緩和」は「和緩」、「病苦」は「苦病」、「落着」は「着落」……といったぐあいである。  このように、日本人は漢語が�輸入�されるや、それを片っ端からひっくり返して自己流に使った。ヤクザが隠語として、「場所」のことを「ショバ」などといったりするのと同様である。  二字の単語にかぎらない。四字熟語の場合でさえ、そうなのだ。「終始一貫」は、中国では「一貫終始」であり、「換骨奪胎」は「奪胎換骨」、「明窓|浄几《じようき》」は「浄几明窓」である。日本人は、それをなぜ逆転させたのであろうか。外国語に対して異常な興味を示し、外国の言葉をさかんに使いたがるくせに、それを勝手に�加工�して、正しく用いようとしない。日本人の外国語下手は、こうした�伝統�によるのではないか、とさえ思われる。  とはいえ、どんな民族も、それぞれ自国流の造語によって、語彙《ごい》を増やしてきた。文化の接触は言語の接触でもある。異質な考えや商品は、とうぜん、新しい言葉を伴ってくる。それを、どのように自国の言葉に翻訳するかで、その民族の造語力が試されるといってもよかろう。この点にかけて、漢字を駆使する中国人は、じつに器用に外国語を翻案して取り入れている。  はじめて中国に行ったとき、上海のホテルの喫茶室で、「可口可楽」と書かれているのを見て、なんだろう、と思った。聞いてみると、コカコーラだ、という。私は、なるほど、と感心した。「口にすべし、楽しむべし」というのか、「口にすれば楽しめる」というのか、いずれにしても、じつにうまい翻訳ではないか。  最近では「客楽我歌」という文字に出会った。あれはどういう意味か、と聞いたら、通訳の青年が笑いながら教えてくれた。 「あれですか。カラオケのことですよ。どうです、ぴったりでしょう。客は楽しみ、我は歌う。あれを中国語で発音するとカ・ラ・オ・ケになるんです」  中華思想といわれるが、中国人は、めったに外国語をそのまま音訳しない。試みに『日中辞典』(岩波版)を繰ってみたら、日本語ではカタカナで表される言葉に、なんとも見事な訳語が当てられている。  たとえば、クイズは「謎語」である。コンベヤーは「伝送帯」、サボタージュは「怠工」、インスタント・コーヒーは「速溶珈琲」、マイクロ・ウェイブは「微波」、ファッションは「時装」……などとあり、カタカナよりもずっと短く、しかも意味がそのまま伝わる言葉を選んでいる。こうした訳語をみると、カタカナばかり氾濫《はんらん》させる昨今の日本人は、言葉好きのくせに、翻訳にかけては、じつに怠惰に思えてくる。外国語の音を、それも、ただ、ずさんにカタカナに移し、日本的に使っているにすぎないからだ。それにくらべ、明治の日本人は、もっと翻訳に真剣、かつ慎重だった。  カタカナの氾濫、それによる日本語の乱れについて、私はいまさら文句を言うつもりはない。だいいち、いくら言ったところで、軽薄な最近の風潮が改まるわけでもあるまい。それに、なんともなさけない話だが、国際化=カタカナ化だと日本人の大半が、そう錯覚《さつかく》しているからである。その証拠に政府が発行する「白書」なるものを読んでみるといい。なんと不必要なカタカナが得意気に使われていることか。  さらに、吹き出してしまうのは、英語をカタカナで表記し、それにカッコをつけて、日本語訳を添えていることだ。こうなると、まさしく本末転倒だ。英語の教科書じゃあるまいし、こんな手間ひまかけて、なんでわざわざ英語を使わなければならないのだろう。たとえば、『経済白書』(昭和六十三年度版)をペラペラめくっていたら、やたらにカタカナが使われ、「ペイメント・システム(支払い決済システム)」などと、書かれている。  こうした例をあげていけばきりがない。逆に、日本語にカッコをつけて、カタカナで英語を添えているのもある。「段階・局面」とあって、それに(フェーズ)と�英訳�が加えられていたり、反対に「ペイメント・システム」の例のように�日本語訳�がつけられていたり、という有様である。「需要の適正化を目指したマーケット・アプローチ」、「現在不足している公共空間(オープンスペース)」、「資本ストックの平均年齢(ヴィンテージ)」、「政策相互監視(サーベイランス)」、「ターゲット・ゾーン制」、「タックス・ヘブンへの逃避」……、いやはや、どこの国の文書だかわからない。  なんで、英語を、ことさら訳語までつけて使わなければならないのか。むろん、何もつけてないカタカナもある。前記の「タックス・ヘブン」とは、|tax haven《タツクスヘイブン》、つまり税金の避難所、日本流にいえば「税金天国」ということなのだろうが、それなら、そう日本語で書けば、誰にだってわかるではないか。  頻出《ひんしゆつ》する単語にいたっては、いちいちあげていく気力もない。「ニーズ」、「グローバリゼーション」、「アメニティ」、「アウトドアライフ」……。  どうして、これを「需要」、「世界化」、「快適さ」、「戸外生活」と書いてはいけないのか。べつに、いけなくはない。ただ、そう書くと�重み�に欠ける、とでも思っているのだろう。外国語(といっても、ほとんどが英語、アメリカ語だが)さえ使えば、その筆者は学があるように見える、そう考えているにちがいない。明治・大正のころの、|えせ《ヽヽ》知識人のような感覚が、いまだに抜けきっていないのだ。  活字の世界だけではない。テレビを見ていると、めったやたらにカタカナ言葉を振り回して、したり顔にしゃべっている。ある夜、何気なしにテレビのスイッチを入れたら、「今夜はひとつ、みなさんにベイ・エリアのトレンディ・スポットをご紹介しましょう」ときた。  テレビ番組にも、カタカナが大手を振っている。カタカナでなければ、視聴率が上がらないとでも思っているのだろうか。  ニュース——これもカタカナには違いないが——でさえ、やれ、「ニュースコール」だの、「スーパータイム」だの、「ニュースステーション」だの、「ミッドナイト・ジャーナル」だの、「ニューススポット」だの、「ニュースサテライト」だの、各局申し合わせたように、へんてこな英語の題名を付けて、得々としている。これが、国際化時代における報道番組の象徴、などと考えているのかもしれないが、意味不明の日本英語では、国際化もなにもあったものではない。  私が聞いて、いつもげんなりするのは、「ウォッチング」という流行語である。何から何まで、ウォッチングだ。何とかパワーというのも、うんざりする。いや、こんな例をあげていったら、言葉を羅列《られつ》するだけで原稿が終わってしまいそうだ。たまたま立ち寄った給油所に『カタカナ語辞典』なるものがあったので、おもしろ半分に買って読んでみたら、あるわ、あるわ、この手のカタカナ英語や略語が、それこそ、ゴマンとあるのだ。辞書一冊分に収めきれないほど、いまや、日本語の語彙はヘンテコな英語に占領されてしまった観がある。  しかし、考えてみると、そもそも日本語の語彙は昔から、その大半が外国語の単語といってもいいほど、輸入超過なのである。われわれが日常使っている抽象語は、そのほとんどが漢語であり、鎌倉《かまくら》、室町時代、いや、江戸期になっても、知識人たちは、単語どころか文章そのものまで、漢文で記しているのだ。むろん、なかには、いい加減な漢文が、かなりある。現代のでたらめ英語と同列である。だから、こうした言語現象は、なにも今に始まったことではないが、それにしても、昨今のカタカナ化は目にあまる。これで、日本の文化を世界に知らしめようというのだから、笑わせる。  そのような心性とは、何なのだろう。一言でいうなら、異文化、かつては中国文化、戦前まではヨーロッパ文化、戦後はアメリカ文化に対する劣等感以外の何ものでもない。商品に関しては、さすがに「舶来」式の外国崇拝は影をひそめたが、(いや、そうでもない。相変らず外国のブランド品=これもカタカナだ=の人気は絶大のようだ)、こと、文化に関するかぎり、まだまだ「舶来」的感覚が、抜きがたく日本人の心を占めている。その何よりの証拠が、カタカナ英語といってよろしい。言葉というのは文化の核だからである。  カタカナ英語さえ使えば、しゃれている、当世風だ、といった感覚は、さまざまな業界からマスコミ(ああ、なんというヘンな言葉!)、若者の日常会話にまで、すっかり定着してしまった。それを端的に象徴しているのが、「イメチェン」に代表される、なんとも奇妙な無数の和製英語であろう。  私は戦争中の軍国主義者のように、外国の言葉を使用してはならぬ、などというつもりはない。異国の言葉を取り入れることは、それなりに必要であろうし、おおいに結構なことだ。しかし、言葉というものは、その国の文化を代表する。フランス人が、いかにフランス語を大切にしているかは周知のことだが、もし、日本が文化的に世界に貢献するつもりなら、まず、自国の言葉の反省から始めるべきではなかろうか。  真の国際化とは、確固とした自国文化の意識のうえにこそ可能だからである。 [#改ページ] [#小見出し]   べ つ に……  現代の日本は「情報化社会」といわれている。  情報化社会とは、すべての事象が情報として扱われ、こうした情報が洪水《こうずい》のようにあふれて大衆に伝達される、そのような社会を意味している。情報は多ければ多いほどよい。だから、私はそれに文句をつけるつもりはないのだが、何もかもが情報化される世の中は、とうぜん、それなりに弊害をともなう。  弊害というのは、すべてが大げさになる、ということだ。情報化とは、人に何かをつたえることだが、人間はかならずしも、何もかも知りたい、とは思っていない。そこで、知らせよう、知ってもらおう、とすれば、否応《いやおう》なしに�耳目をそばだたせる�ような表現をとらざるを得ない。つまり、大仰な言葉を使って、人の関心や興味を、むりやりに引きつけようとすることになる。  その代表が、広告・宣伝であろう。「誇大広告」は取り締りの対象になっているようだが、私はこれはおかしいと思う。「虚偽の広告」は取り締まってしかるべきだが、誇大《ヽヽ》広告がいけないというなら、広告そのものが成り立たないことになってしまうからである。誇大に表現するからこそ、宣伝になるのであり、宣伝は、昔から鳴り物入り、つまり「鉦《かね》や太鼓で」行われてきたのだ。  情報化社会というのは、この意味で「広告・宣伝社会」といってもいい。なにしろ、�純粋な�ニュースまでが、宣伝的性格を持つようになったのだから。テレビのニュース番組の変質が、それを正直に物語っているではないか。  ニュースは、それを知りたい人が聞けばいい。それなのに、なんとかして、より多くの人たちに伝えようとすれば、どうしても�鳴り物入り�で、趣向を凝らさねばならぬ。そこで、ニュースそのものよりも、それを伝える人物に焦点があてられるようになり、人びとの関心は人気キャスターに集まることになる。ニュースキャスターとは、いってみれば、ニュースの宣伝係《ヽヽヽ》の役割を担《にな》わされているのである。  こうした傾向はテレビにかぎったことではない。新聞にしても同様である。新聞はかつて街頭で、その日の目玉記事を大声で読みあげて売ったものだ。『読売新聞』という名前がそのいきさつを、そのまま語っている。記事を大声で読んで売る——現代ではニュースキャスターがそれを受け持っているわけだ。  いうまでもないことだが、部数をのばすため、あるいは視聴率を稼《かせ》ぐためには、宣伝が不可欠である。そして、宣伝は喧《ヽ》伝なのであり、いきおい、大げさにならざるをえない。ニュースでさえ、こんな有様なのだから、テレビの娯楽番組が、ますます大仰な装いを競うことになるのは当然であろう。いわゆるリポーターが中心になって紹介にこれ努めている温泉の案内や、料理番組にいたっては、誇大表現の連続で構成されている、といってもいいほどだ。  私はその大げさな感嘆詞を聞くたびに、何とも同情を禁じ得ない。リポーターは、何を見ても驚いた|ふり《ヽヽ》をしなければならないからである。こうして、やたらに感嘆詞が連発されることになる。だが、感嘆詞の数は、けっして多くない。そこで、リポーターは、せいぜい、きまりきった二、三語を、大仰に、繰り返し口走る始末になる。  それを聞いていると、日本語は、かくも貧弱なのか、と情けなくなってくる。彼らが頻発《ひんぱつ》するのは「わっ、すごーい!」だけなのである。いまのところ、それ以上の誇大な表現は日本語にないからだ。ある朝、新聞を繰っていたら、某製品の全面広告が出ており、そこに、こんな表現が大きな活字で踊っていた。 「凄《すご》い、の上!」  おそらく、コピーライターは、その商品について最大級の形容詞を、さんざん考えたにちがいない。けれど、「凄い」以上の日本語が見つからなかったので、こんな文句になったのであろう。  じっさい、「凄い」とは、�すごい�言葉なのである。不気味な人物に街頭で「|すご《ヽヽ》」まれたら、どんな人間でも鳥肌《とりはだ》立つだろう。試みに『広辞苑』(第三版)によれば、「すごい」とは、「寒く冷たく骨身にこたえるように感じられる」「ぞっとするほど恐ろしい。気味が悪い」の意とある。  むろん、それが原義で、「ぞっとするほどすばらしい」、「程度が並々でない」といった意味も加えられているが、現代の若者たちが口ぐせのように使う「すごーい!」という表現は、その強調にもかかわらず、「ぞっとする」ほどのものではないこと、いや、まったく大したものでないこと、明らかである。  言葉は、それを使っているうちに、次第に磨滅《まめつ》して、価値を下落させる。尊敬語が、やがて普通語になり、しまいに低級語にさえ変質していく例は、「貴様」「お前」などを始め、いくらでもある。同じように、最大級の形容詞も次々に下落し、ついにはたんなる慣用語になってしまう。その好例が「すごい」だろう。  だから、「すごい」は、すこしも「凄く」ないのである。けれど、それに代わる日本語は、いまのところ�発明�されていないので、何もかもが、「すごい」ことになってしまうのだ。  いずれにせよ、現代の日本は、大げさ社会、針小棒大《しんしようぼうだい》社会、といってもよろしい。つまらぬことが大仰に騒ぎたてられ、肝心な問題が、その陰に隠れてしまっているのだ。すべてが「すっごい」と騒がれ、だが、じっさいは、少しも「すごく」ない、という奇妙な社会なのである。もし、こうした情報化、すなわち|大げさ化《ヽヽヽヽ》がさらに押し進められていくなら、今後、いったいどんな世の中になっていくのだろう。おそらく、�から騒ぎ社会�なるものが実現するにちがいない。日本人は祭り好きだから、それをおおいに歓迎するだろう。そして、なにか深刻な事態が起きると、「世間をお騒がせして申し訳ない」と神妙な顔つきで謝り、ハイ、つぎ! ということになるわけだ。  ヨーロッパから帰るたびに私が痛感するのは、日本の騒々しさである。過密な都市に住めば、うるさいのはやむをえないが、この国の喧騒《けんそう》は、なんでもないことを無意味にわめき散らす体《てい》の雑音なのである。端的にいうなら、幼稚園のうるささだ。それが今後、いよいよ増幅されるのかと思うと、もう勘弁してくれ、と言いたくなる。これが情報化社会の報酬だとするなら、私はそんな社会に住みたくない、とさえ思う。おそらく、近い将来、「すっごく」より、もっと�すっごい�言葉が発明されるだろう。最大級の言葉が氾濫《はんらん》する社会、それは、どう考えても知的な社会からは、ほど遠い。  東洋の文明は、静寂が生み出した、といわれる。日本の詩歌を代表する作品は、芭蕉《ばしよう》の「古池や」をはじめとして、静寂をうたったものが主流を占めている。それが、いまや、すっかり転倒してしまった。声は大きければ大きいほどいい、身振りは大仰であればあるほど効果的だ、言葉は最大級にかぎる……。  こうして、その勢いはとどまるところを知らない有様となった。このような環境に生まれ育つ子供たちは、いったいどんな人間になっていくのだろう。騒音なしでは生きられない、大げさに表現しなければ耳を傾けない、仰山な身振りでなければ見向きもしない、そんな�新・新人類�が、今後、続々誕生するにきまっている。  そんなふうに考えて、私は、いささか暗澹《あんたん》たる気分になっていた。ところが、それは、どうやら杞憂《きゆう》にすぎないようにも思われだした。  社会心理学者の説くところによれば、人間は過剰な情報環境の中に置かれると、逆に�アパシー�に向かうというのである。�アパシー�とはギリシア語のアパテイアに由来するが、現代では、「社会的、政治的無関心」の意に用いられている。もともと、ギリシア語のアパテイアとは、ストア派の哲学者が理想とした「平安《アタラクシア》」を意味している。すなわち、パトス(情念)から脱却して冷静に、理性的に生きる精神状態を、彼らは、そう名づけたのである。  だが、そうしたストア哲学の理想は、いまや、マイナスのイメージに変わり、無感動、無気力、身のまわり以外に注意を払わない無関心さ、を意味するようになった。じっさい、こう情報が氾濫し、最大級の言葉が乱発されるようになれば、いちいち、それにとりあってはいられない。そこで、現代人は何を聞いても�話半分�にしか受け取らないようになった、というのである。  たしかに、そうかもしれない。げんに、テレビのコマーシャルや、新聞の広告を、いちいち、|まともに《ヽヽヽヽ》受け取っている人はいまい。�話半分�どころか、それこそ、いい加減に聞き流し、チラと目を走らせるだけである。  しかし、困るのは、そうした癖がつくと、こんどは大切なことまでが、そんなふうに看過されるようになってしまうことだ。社会学者たちは、それを恐れている。いや、すでに人々はそうなりつつある。  私の息子夫婦が五年にわたる海外勤務を終えて、帰国した。パリで育った孫は、いわゆる帰国子女——「子女」とは「むすことむすめ」をさすらしいが、「女子」の意もあり、不明、不快な言葉だ。ちなみに私の孫は男の子である——として、日本の小学校に転校することになった。最近は下火になったというが、�いじめ�にでもあったらかわいそうだ、と心配したが、小学校四年に編入した孫は、翌日から友達を連れてくるといった調子で、結構うまくやっているらしかった。  それでも気になったので、「どうだい、学校で仲間はずれにされないかい」と聞いてみると、彼は、「べつに……」と答えた。なんとも素っ気ない返事である。 「でも、なんとか言われるだろう」と、さらにきくと、 「うん、みんな、僕のことを、|おフランス《ヽヽヽヽヽ》って言うんだよ」と言った。  私は思わず、近|頃《ごろ》の子供たちは、なんとまあ、うまい言葉を発明するもんだ、と感心したが、あとで聞いてみると、それは、もうずいぶん前からある冷かし言葉で、赤塚不二夫《あかつかふじお》のマンガが元祖、ということだった。  しかし、そう言われた当人は、どんな思いをするのだろう。そこで、「そんなこと言われて、いやじゃないのか」と聞くと、彼は再び、「べつに……」と言った。  私は「おフランス」よりも、孫の言う「べつに……」のほうに、いたく興味をそそられた。それは、まさしく、アパシーそのもののような気がしたからだ。じっさい、彼は何を聞いても、「べつに……」と言うのである。  で、私は「お前は、よく、|べつに《ヽヽヽ》、と言うけど、その言葉、学校ではやっているのか」と聞いたら、「うん、みんな、よく使うよ」とのことだった。とすると、今の子供たちは、�べつに世代�と言えるのかもしれない。現代日本の�大げさ社会�は、ついに、アパシーの見本ともいうべき�べつに世代�を生み出しつつあるのだ。  そこで私は思い直した。「わっ、すごーい!」が今の若者の常套《じようとう》句だとすれば、「べつに……」は、次の世代のキーワードになるにちがいない、と。  しかし、私はそれを歓迎する。もしかすると、いまの子供たちの「べつに……」感覚が、ストア派の哲人が理想とした「平安」を、この騒がしい日本の社会にもたらしてくれるかもしれないからだ。 [#改ページ] [#小見出し]   その辺のところ  そう、もう、三十年以上も前になる。私は『あいまいな言葉』という記事を新聞に連載し、それを一冊の本にまとめた。自分にとって、最初の著作だった。  当時、私は朝日新聞の記者をしており、週に一度、新聞の文化欄で、日本語がいかにあいまいに使われているか、そのために議論がどれほど空転し、不毛な結果に終わっているか、を個々の言葉について検証してみたのである。初めての本にしては、よく売れた。ということは、思いを同じくしている人たちが多かったせいだろう。  とりあげた言葉は、いろいろだった。「進歩的」「文化」「良心」「正義」「自由」「政治力」「近代的」……といった抽象語である。そのほとんどが、漢語、もしくは和製漢語、あるいは「ヒューマニズム」などのカタカナ語であった。  日本人はもともと、このテの抽象語に慣れていない。そこで、はっきりと意味を確かめないまま、あいまいに使ってしまうから、多くの場合、議論が噛《か》み合わない。その反省を込め、当時さかんに使われていた言葉のひとつひとつを、あらためて点検し、それらが、いかにあいまいな概念であるかを調べてみたのだった。  こういう作業は、こんにちでも必要なのではあるまいか。いや、当時よりマス・メディアがはるかに大量の情報をばらまいている現在のほうが、もっと切実といっていいかもしれない。不毛な論争は、その多くが、概念のくいちがい、言葉の使い方にかかっているからである。 「あいまい」の反対概念は「正確」である。科学的な考え方とは、いうまでもなく、正確を期す、ということだ。コンピューターをはじめ、さまざまな機器に囲まれて暮らす現代人にとって、正確さは不可欠な条件となっている。げんに、「非科学的」という形容詞は、「無知」と同義語にさえなっているではないか。  さて、そう考えると、これほど多くの情報機器を使いこなしている日本人が、日常の生活では反対に、あいまいな言葉を乱発し、議論を不毛なものにしている光景は、いささか喜劇的に思われる。  むろん、日常の言語——これは自然言語といわれている——と、コンピューターに使われる機械の言葉——こちらは人工言語と呼ばれる——とは、性格がまったく違う。人工言語の最たるものは数式であるが、人間は日常会話を数式のように話せるものではない。もし、それほど厳密に言葉を吟味して使わなければならないというなら、われわれの会話は、なんとも味気ない法律問答のようになってしまうことだろう。たとえば、私を甲とし、相手を乙とする。甲ハ乙ヲ……というような契約の文書そっくりに、ふたりの人間が話し合っている情景を想像してみるといい。吹き出したくなるだろう。  法律の文章や、機械の説明書の記述が、よく悪文の例に挙げられるが、じつは、それは無理もない話なのである。厳密に、遺漏なく叙述しようとすれば、自然言語は、とうぜん人工言語ふうにならざるを得ないからだ。  こうして、現代人は言語の二律背反の中で生活することになる。片方にはあいまいな表現があり、他方には厳密な定義に基づいた正確な機械語がある。人びとは、この二つの言葉の谷間で暮らさねばならない。これこそ現代人の宿命、といっていいかもしれない。  したがって問題は、この両者をいかに使い分けるか、ということになる。  しかし、考えてみると、それは人間がこれまで、知らず知らずのうちに行なってきたことではないか。科学と芸術の共存が、それを端的に証明している。  たとえば、詩歌というものは、人工言語とはおよそ反対に、言葉のあいまいさによって成り立っているものだ。もし、詩や歌に用いられる言葉のひとつひとつが、厳密な定義の上に成り立っており、明白な概念で構成されているとしたら、そのような表現は、およそ鑑賞者の想像力を刺激することはないだろう。そこに使われている言葉が、さまざまに解され、感じとられるからこそ、詩歌は存在価値を持つのである。日本美の本質とされる「わび」「さび」「幽玄」「みやび」といったものは、まさしく、言葉のあいまいさ、つまり、解釈の自由を許す多義性が生み出した成果といってもよろしい。  このように、言葉というものは、どんな言語であっても、つねに「あいまい」と「正確」との葛藤《かつとう》を余儀なくされているのである。だが、ヨーロッパ人たちが「より正確に」言葉を使おうと努めてきた——そこから彼らの哲学や科学が形成されたのだが——のに対して、日本人は、むしろ、あいまいさを好み、表現を和《やわ》らげようと努めてきたように思われる。「和らげる」とは、すなわち「ぼかす」ことであり、相手の推察にまかせる、ということである。日本に論理学や科学的思考が育たなかったのは、おそらくそのせいであろう。  あるいは、こう言えるのかもしれない。日本人は、はじめから、言葉とはあいまいなものである、と考え、その厳密な使い方にこだわらなかった、とも。それどころか、言葉のあいまいな性格を逆手にとって、それを存分に利用してきたのだ、とも。  日本に独特な詩歌の形式、連歌や連句という「座の文芸」が成立したのも、そのためであろう。和歌は贈答の文芸ともいえるし、相聞歌《そうもんか》と呼ばれる恋歌からも察せられるように、日本人にとって、言葉とは「|それとなく《ヽヽヽヽヽ》」相手に、こちらの思いを伝え、相手の推察にまかせる、そのようなものであった。のちにおこる俳諧《はいかい》も、そもそもは挨拶《あいさつ》の意や、滑稽《こつけい》、すなわちユーモアのやりとり、という遊びの精神から出発し、やがて、詩的会話ともいうべきものに発展していったのである。日本人ほど言葉の洒落《しやれ》に興ずる民族はない、といってもいいほどだ。  枕詞《まくらことば》もそうだし、掛詞《かけことば》から、落語の下《さ》げにいたるまで、日本人はいつの世にあっても、言葉遊びに熱中してきた。その性格はいまも変わらない。テレビのコマーシャルなどに、どれほど言葉の駄《だ》洒落が流行していることか。  言葉は、いうまでもなく、コミュニケーションの手段である。そうである以上、一方から他方へ、正確に内容が伝わらねばならない。そのためには、あいまいな意味を、少しでも明確にする努力をせねばならぬ。三十年前、私が『あいまいな言葉』を書いたのは、そのような目的からであった。  ところが、最近、もっとも正確を期さねばならないコンピューターの分野で、「ファジー理論」なるものが、おおいに注目され始めた。この理論は、三十年近く前、アメリカのザデーというシステム工学の研究者が言い出したもので、機械にも「あいまいさ(ファジーネス)」を導入すべきだ、という考え方である。  なぜなら、機械は人間が使うものであり、その人間とは、もともとファジーな性格を持つ存在なのだから、機械は|そのような人間に合わせて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》つくられなければならない、というのである。  これは、まさしく、従来の意識の変革といっていい。これまでは、どちらかといえば、|人間が《ヽヽヽ》機械に接近すべきである、と考えられていた。だから、「あいまいさ」は、機械とのコミュニケーションにおいて、目の仇《かたき》にされてきたのである。けれども、人間が機械を使うために、機械的正確さを要求されるとしたなら、人間は機械の奴隷《どれい》でしかない。それは本末転倒ではないか。  そうではなくて、|機械のほうが《ヽヽヽヽヽヽ》人間的な「あいまいさ」を身につけるべきなのだ、というのが、その発想の原点であった。  たとえば、人間は「|ちょっと《ヽヽヽヽ》右」とか、「砂糖を少々《ヽヽ》」とか、「|えらく《ヽヽヽ》暑いね」といった表現をよく使うが、こうした「あいまいな」表現は、けっこう日常生活で支障なく機能しているのである。 「ちょっと右」といわれて、「その�ちょっと�とは、厳密に言って、何メートルですか」などと反問する人はいまい。仮に、そう反問されても、「一・三メートルだよ」などと答えられる人もいないだろう。お互いに「ちょっと」で、充分用が足りているのである。  ところが、機械にそう要求しても、機械は相手の意を察して、�適当に�、ものごとを処理してくれはしない。あくまで正確に、「何グラム」とか、「何度」とか、「何メートル」とか、指定しなければ作動しない。ファジー理論は、そうした|融通のきかぬ《ヽヽヽヽヽヽ》機械に「あいまいさ」を組み込んで、機械のほうを人間に近づけようとする試みなのである。  むろん、機械に、そのような性格を与えることは、けっして容易ではない。ロボットに「やや左」とか、「ほんの少し前」などと命令して、ロボットが命令者の意をくみ、そのとおりに動くような仕組みをつくるのは、きわめて困難なことだろう。なぜなら、そのためには、ロボットを人間並みの頭脳につくりあげねばならないからである。そう考えると、人間の持っている「あいまいさ」は、もっとも人間的な特質であって、機械には簡単に真似《まね》できない特質、ともいえよう。  正確さというのは、真か偽かを、はっきりさせることである。真であり、同時に偽である、などということは許されない。つまり、科学的な思考とは、イエスかノーか、コンピューター言語でいうなら、1か0か、という二値論理ですべてを割り切ることの上に成立している。  それに対して、「あいまいさ」とは、多義的であるがゆえに、イエスでもあり、ノーでもある、という場合が充分おこりうる。それは、二値的な立場からすれば、明らかに矛盾であろう。しかし、現実は、そのような矛盾に満ち満ちているのである。そうした矛盾を巧みにすり抜けていく能力を「融通|無碍《むげ》」とみるなら、あいまいな言葉を平気で使ってきた日本人は、むしろ、現実に器用に順応してきた民族ともいえまいか。  ところで、私がいつも気になるのは、「その辺のところ」という日本的表現である。  たとえば、座談会の司会者が出席者の意見を聞くとき、しばしば、「|その辺《ヽヽヽ》のところをどうお考えですか」と問う。なぜ、「|その点《ヽヽヽ》についてどう思うか」と、問題|点《ヽ》をはっきり指摘しないのだろう。  それは、たぶん、多様な答えを期待しているからにちがいない。もちろん、日本人である私もよく使う。たまたま、フランス人とドイツ人が参加していた討論会の司会を受け持ったとき、私はこの言葉で意見を求めた。すると、フランス人が「その辺のところとは、どういう点なのか」と私に反問した。そうきかれ、私はあらためて、あいまいさを好む日本人である自分を発見し、苦笑せざるを得なかった。  だが——最近のファジー理論によって、「あいまいさ」の積極的な価値を教えられた私は、あらためて、あいまいな表現の多い日本語の特質を、べつの目で見直そうと考え始めている。 [#改ページ] [#小見出し]   お茶を濁す  日本には茶道というのがあって、日本文化を代表する風雅な集まりのひとつになっている。  むろん、喫茶の習慣は中国から渡来したものだが、それを日本人は高度な作法にまで高めたのである。  ところが、奇妙なことに、日本人は、一方で「茶」をこのように高尚《こうしよう》なものとしながら、他方では、ひどく「茶」を、おとしめているように思われる。というのは、日本語のさまざまな表現のなかで、「茶」はつねにふざけた調子で使われているからだ。  たとえば「お茶を濁《にご》す」である。私はかねがね、この言葉が、いったい、いつごろ、どんなきっかけで生まれたのか、不思議でならなかった。だいたい、「お茶を濁す」とは、どういうことなのだろう。辞書には「いいかげんにその場をごまかす」(『広辞苑』)などと、その意味が記されており、ほとんどの日本人は無意識にそうした用法で使っている。  しかし、わからないのは、お茶を「|濁す《ヽヽ》」ということだ。|濁す《ヽヽ》とは、お茶を濃くすることなのだろうか。  お茶を濃く入れれば、白湯《さゆ》と違って、茶碗《ちやわん》の底は見えなくなる。そこから「ごまかす」の意が生まれた、と思えなくもない。それにしても、お茶を濃く入れることを「濁す」とは、だれも言うまい。「お茶を入れましょうか」とは言っても、「お茶を濁しましょうか」などという表現は、聞いたことがない。  ところが、どんな辞書をひいても、意味は記してあるものの、この表現が、どこからきたのか、を不問に付している。それこそ、「お茶を濁して」いるわけだ。  これに始まって、「茶」を引き合いに出した言葉はいろいろあるが、大半が不|真面目《まじめ》なニュアンスを持ったものばかりである。「茶《ヽ》化す」「茶々《ヽヽ》を入れる」「|おちゃ《ヽヽヽ》らかす」「|お茶《ヽヽ》をひく」「茶《ヽ》目っけ」「茶《ヽ》番」「無|茶《ヽ》苦|茶《ヽ》」、さらに江戸時代には「茶《ヽ》に受ける」「茶《ヽ》を言う」「茶《ヽ》にする」「茶《ヽ》にかかる」「茶《ヽ》に暮らす」といった日常語があり、この場合の「茶」とは、どれも「ふざけること、冗談」を意味していた。廓《くるわ》では、なんと、「茶」は「交合」を指していたという。(前田勇編『江戸語大辞典』)  どうして、茶がこのように、ふざけや冗談と結びついたのか。善意に解釈すれば、お茶を飲むというのは、緊張を解きほぐすことであり、愉快な会話を楽しむことであり、軽口を言い合うことでもあり、つまり、「真面目」から解放する役目を果たしたからではあるまいか。  それは、連歌から俳諧《はいかい》へ至る道筋と似ていなくもない。茶道は風雅な集まりには違いないが、そこには厳《きび》しい約束事がある。連歌にも厳格な式目《しきもく》があって、庶民には容易になじめないところから、ふざけた言葉、すなわち、俳語をふんだんに使い、世俗的な題材を詠《よ》み込んだ俳諧連歌、さらには俳諧連句が生まれた。  それと同じように、「茶」に、ふざけた意味あいを持たせるようになったのも、「お上品な」茶道に対する「下品な」俗人の反発がなせるわざだったのかもしれない。  文化とは、「下品」を「上品」にすることのように思われているが、歴史的にみると、どうやらその反対で、上品はつねに下品にとって代わられ、その「下品」が長い歳月に洗われて、いつか「文化」に結晶していくようである。その代表ともいうべきものが江戸の町人文化、庶民文化である。だから、文化の象徴ともいうべき「言葉」が同様な道行きをたどったとしても、けっして不思議ではない。  そう。言葉はいつの世にあっても、�堕落�することで育ってきたのである。言い換えるなら、日本人は、言葉を「茶化す」ことで、日本語を大きく変えてきたのである。  前にも触れたが、上品な言葉は、きまって価値を低められ、その地位を引きずり下ろされる運命にある。 「貴様」とは、本来は最上級の敬語であった。それがいつのまにか、ぞんざいな二人称に転落した。「お前」も、しかり。こうした例はいくらでもある。いうなら、言葉は、つねに�平価切下げ�をしてきたのだ。  そして、こうした成り行きは、経済現象と同様、インフレにその原因がある。すなわち、言葉はインフレ時の貨幣のように氾濫《はんらん》して、みずからの価値を、つぎつぎに引き下げてゆくのである。  インフレというなら、情報化時代といわれる現代は、まさしく言葉のインフレ時代ではないか。とうぜん言葉の重みなど、いまや、どこにも見出せない。言葉は環境音楽のように、ただ、漫然と聞き流す体《てい》のものになってしまった。だから、ひとつ、ひとつの言葉を「根ほり葉ほり」詮索《せんさく》するなどということは、いまや、�反時代的考察�というべきであろう。  フランスの作家フローベールは、ひとつの形容詞を探すのに、何日もかけたそうである。それは、マッチ棒一本を削るため、森を伐《き》り倒すようなものだ、とさえいわれている。しかし、現代では、そうした逸話も、「古き良き時代」の牧歌のように聞こえる。言葉は、とうに、そんなものではなくなったのだ。それに何より力を貸したのは、おそらく、のべつ幕なしに、しゃべりつづけるラジオの登場だったにちがいない。  聞き流される以上、言葉は意味よりも、リズムや、トーンに重きが置かれることになる。現在、日本に氾濫しているカタカナ語の大半は、意味のない、ただイメージを喚起する記号と化している。イメージを膨《ふく》らませるために必要なのは、ただ響きや調子のよさや、目新しさだけなのであり、そのためにはむしろ、無意味なほうがいいのである。  すると、人びとは勝手に想像し、何となく言葉に引き寄せられていく。広告の文句の役割は、まさにそこにあるのだ。日本に呆《あき》れるほど�流通�しているカタカナ語のほとんどは、「実体」を殺して、「機能」だけを生かそうとするもの、といってよい。そして、いったん、言葉をこのように扱いはじめると、もはや、とどまるところを知らぬ始末となる。  その代表が、最近やたらにカタカナ化した職業名であろう。以下、目についた新聞記事を引用させてもらう。 [#ここから1字下げ] ——深刻な人手不足に悩む各業界で、求人職種を響きのよい片仮名で呼ぶケースが目立ってきた。「汚い・苦しい・危険」の三Kを嫌《きら》う若者たちを引きつけ、人材を確保しようとの狙《ねら》いだが、中には何をするのか分からない呼び名もあり、いささか過剰気味だ。……(『読売新聞』一九八九年十月二十八日付) [#ここで字下げ終わり]  この記事によると、そのカタカナ語でさえ、あっという間に、さまざまなマイナスイメージがこびりついてしまうので、別のカタカナ語に、とって代わられているようだ。「ウェイトレス(ウェイター)」「ホステス」は、「ホールスタッフ」「フロアレディ」に呼び換えられている、というのである。とうぜん、過去のイメージが付着した日本語名は目の仇《かたき》にされ、片っ端からカタカナ新語に置き換えられる。 「皿洗い」は「ウォッシャー」、女性の「販売員」は、「なんとかレディ」、また、「パチンコ店の店員」は、「サービスサポーター」、「電話セールスの係員」は、「テレホンアポインター」などという意味不明の言葉に置き換えられているらしい。  そして、同記事は、あるデパートの担当員の話を、こう紹介している。 「事務職というと田舎のお役所風景を思い浮かべるが、オフィスワーカーなら、OA機器が整備された近代的な事務所を連想する。求人難だけに、この傾向は当分止まりませんよ」  ついでに、目にした新聞記事(『日本経済新聞』一九八九年九月二十六日付夕刊)から、もうひとつ、�トレンディ�な現象をひろってみよう。いろいろな街の、商店街の客寄せ�ネーミング�の妙《ヽ》である。ひところは、猫《ねこ》も杓子《しやくし》も「○○銀座」だったのが、「街の個性をにじませようと、凝りに凝った名前をつけるところ」が多くなった、というのである。その例を紹介しているのが、「タウンウォッチャー」(!)なる職業(?)の人物で、あるわ、あるわ、いったい、どうなっちゃったんだろう、と思わせるようなケッサクが並んでいる。  たとえば、東京・葛飾《かつしか》区の商店街「亀有《かめあり》銀座」は、新しい名前を決めるのに、なんと、三年もかけたという。そのあげく、決まったのが「ゆうろーどKameari」だそうで、最後まで残ったのが「ゆーろーど10+」「遊ロード10+」だったという。 「10+」とは、何なのだろうと思ったら、「亀」は英語で「トータス」というから、すなわち「10(トー)を+(タス)」というわけだった。こうなると、まるで子供のクイズである。  川崎市には「ブレーメン通り」なるものが登場したし、大阪には「道頓堀《どうとんぼり》ガーデンロード」や、梅田の地下街「Whity UMEDA」——白を基調としたのでそう名付けたのだそうだ——が出現した。  東京の武蔵野《むさしの》市。武蔵境《むさしさかい》駅の駅前通りは「すきっぷ通り」と名を改めた。「子供もスキップしてしまうような安心して買い物を楽しめる通り」という意味をこめての命名だそうだが、これには「切符《ヽヽ》」と「|好き《ヽヽ》な通り」を引っ掛けてあるのだという。つまり、「|好きっぷ《ヽヽヽヽ》」というわけである。こんな駄《だ》洒落《じやれ》では落語の下《さ》げにもなるまい。いまに日本の街の通りは、いったいどこの国なのだか、クイズマニアでなければわからない体のものになり果てることだろう。  こうした日本人の好みを当て込んで、西ドイツには「エリカ街道」なるものが現れたという。これも新聞が報じていたことだが、「ロマンチック街道」といった名前にあこがれて、日本人観光客が西ドイツの南部にばかり行ってしまうのに業《ごう》を煮やしたハンブルクの観光局がひねりだした策なのだという。しかし、このルートは、かつて塩を運んだ通商路なので、地元のドイツ人は「塩の道」と呼んでいる。それを勝手に「エリカ街道」などと名付けたので、かなり物議を醸《かも》しているそうである。  もともと日本人は、ナンセンスに興じる性向がある。とくに言葉の駄洒落がおおいに受ける。日本人にとって、言葉とは、このうえなく�愉《たの》しき玩具《がんぐ》�なのだ。  私は言語遊戯を非難するつもりは、さらさらない。が、言葉をあまりにおもちゃにすれば、言語が本来持っている大切な役目が失われ、言葉の「千|鈞《きん》の重み」は、いつか「鴻毛《こうもう》の軽き」に変質していくだろう。遠からず、どんな言葉も、まともに受け取られなくなってしまう。いや、げんに、そうなりつつあるではないか。 「お茶を濁す」ように、言葉も濁される、とは、情報社会の、なんたる皮肉であろうか! 昨今の日本語の姿は、七百年前に書かれた鴨《かも》長明の『方丈記』の一節を思わせる。それを一語だけ変えて、|お茶を濁す《ヽヽヽヽヽ》とすれば、現今の日本語の情況は、こんな姿になり果てている。 [#ここから1字下げ] ——淀《よど》みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例《ためし》なし。世中《よのなか》にある人と「言葉」と、またかくのごとし。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#小見出し]   おしゃれな  多少とも言葉に敏感な人なら、嫌《きら》いな言葉、それを聞くと、うんざりするような表現が、必ずあるものだ。むろん、語感は人によって違う。だから、不愉快な言葉といっても、それはあくまで主観的なもので、別の人が聞いたら、どうしてその言葉が、そんなに気にいらないのか、不思議に思えるだろう。  それを充分承知のうえで、私は、いささか大|袈裟《げさ》に言えば、�身の毛もよだつ�ほど、いやな言葉のいくつかを挙げてみる。いや、よそう。流行語のほとんどが、これに入ってしまうからである。  しかし、考えてみれば、それはとうぜんであろう。流行語とは、ネコもシャクシも使う手垢《てあか》のついた言葉である。それを聞いて、うんざりしないほうが、どうかしているのだ。うんざりどころか、逆に「ナウい」などと得意になっているのは、ネコかシャクシか、だろう。  ついでに言えば、「ナウい」といった言葉も、不快きわまりない表現である。最近ではそれが「トレンディ」なる流行語に代わったようだが、不快指数は変わらない。  私にとって、不愉快な言葉の多くは、日本製のカタカナ英語だが、れっきとした日本語でも、ご勘弁願いたい類《たぐ》いが山ほどある。そのひとつが、これまた、近ごろやたらに使われるようになった「おしゃれな」という表現である。なぜ、こんな形容詞が急にはやりだしたのか、不思議に思っていたら、そのわけは、つぎのような事情にあるらしい。  求人難に悩む企業が、なんとかして学生を引きつけようと、彼らの好むイメージを調査会社に依頼したところ、そのトップが「おしゃれ」だった、というのだ。その「おしゃれ」のイメージ、まさしく、昨今の軽薄きわまりない世相にぴったりである。  もともと、「しゃれ」という日本語は、それなりの歴史を持っている。その語源は「曝《さ》れ」の転(『古語辞典』岩波版)とされているように、本来は曝《さら》すことにあった。そこから、野に曝された白骨を「されこうべ」「しゃれこうべ」と言うようになったのである。  陽《ひ》に曝せば白くなる。「曝れ」が、江戸時代に「しゃれ」となり、それが「垢抜けした」という意味を持つようになったのも、こうした語源をふまえてのことだったに違いない。  やがて、「しゃれ」の意味は次第に広くなり、同時に、洗練されて、しまいには、日本の美学を体現する含蓄ある言葉にさえ変質した。すなわち、「いき」である。 「いき」とは、江戸時代に廓《くるわ》を中心に使われた言葉であるが、その本質を哲学的に考察して独自の見解を展開したのは九鬼周造《くきしゆうぞう》だった。  彼は大正の末年、ヨーロッパに留学し、哲学者フッサールやハイデッガーについて学び、「実存」という訳語を作りだしている。そして、帰国後、昭和五年に、『「いき」の構造』という論文を世に問うた。その著が、当時、どのような評価を受けたのか知らないが、この本は、思い出したように昭和四十年代に復刊され、このときは、おおいに読まれたものだ。いや、いまなお、読み継がれているのかもしれない。  私は戦後間もない大学時代に、この論文を読んだのだが、そのときは、それほど興味をそそられなかった。充分に理解できなかったせいだろう。  ところが、いまから三十年近く前、南ドイツのフライブルクで、たまたま故ハイデッガー教授に面会した折り、シュウゾウ・クキの話を聞かされてびっくりした。ハイデッガーに師事した日本人は、三木清をはじめ、何人かいるが、教授にとって、九鬼周造は、よほど印象に残っていたらしい。  ハイデッガーは、わざわざ、茶色くなった写真まで持ち出し、そこに写っているクキを懐《なつ》かしそうに指さしながら、こんなエピソードを語ってくれた。 「クキは、そのころ、『イキ』という日本の美について、さかんに私に説明してくれたのだが、私にはよくわからなかった。私は日本文化について、何も知らなかったからね。でも、彼は夢中になって『イキ』を美学的に解明する、と言っていた。じつに向学心に燃えた男で、私のもとを去ったあと、フランスに行き、フランス哲学を勉強して帰国したようだ。……」  ところで、私がハイデッガー教授から聞いた話というのは、こうである。  フランスに行ったものの、彼はフランス語がさっぱり通じなかったらしい。思い余った彼は、パリの新聞に「フランス語の家庭教師を求む」という三行広告を出した。すると、ある日、ひとりのフランスの青年がやってきた。髪をボサボサに伸ばしたその男は、自分も哲学を勉強している、といった。  そこで、九鬼は、その男に月謝の代わりに、ドイツ語とドイツ哲学を教え、その男からフランス語とフランス哲学を教えてもらった、というのである。そしてハイデッガー教授は、いかにもおかしそうに笑いながら、 「そのフランスの青年、誰だと思う?」といって、自分でこう答えた。 「ジャン=ポール・サルトルだよ」  そんな話を聞いていたこともあって、私は『「いき」の構造』が復刊されると、さっそく買い求めて——というのは、私が学生時代に読んだ本は、とうになくなっていたからだが——、あらためて読み直した。解釈学的、あるいは現象学的とでもいうのだろうか、文体は硬く、とても気軽に読めるような本ではない。が、私はこの本によって、「いき」といった日常語に、これだけの日本文化の陰影が塗りこめられているのか、と、あらためて教えられたのだった。  彼によれば、「いき」とは、「苦界《くがい》」にその起原を持ち、「つれない浮世の洗練を経てすっきりと垢抜《あかぬけ》した心」、したがって運命に対する「諦《あきら》め」、その諦めからくる「恬淡《てんたん》」が根底に秘められているのだという。  もちろん、「いき」とは廓《くるわ》の中で生まれた言葉である以上、異性とのかかわりを前提とする。彼は、そのかかわりを、「媚態《びたい》」としてとらえ、さらに前記の「諦め」が、いさぎよさに通じているところから、「未練のない」「無碍《むげ》」の心情として解される。  要するに、「いき」は、「武士道の理想主義に基づく『意気地』と、仏教の非現実性を背景とする『諦め』とによって」生み出された美、というわけである。  では、そうした心底から現れる実際の行動様式とは、どんなものなのか。 『広辞苑』によると、「気持や身なりのさっぱりとあかぬけしていて、しかも色気をもっていること」「人情の表裏に通じ、特に遊里・遊興に関して精通していること」ということになる。それは、そのまま「しゃれ」に通じている。「しゃれ」とは、「気のきいたさま。いきなこと」(同前)を意味しているからである。  つまり、「しゃれ」とは、「いき」と同義であり、「いき」の持つ陰影を帯びつつ、さらに内容を広めた言葉、と解してよかろう。そして、音が似通っているところから、「戯《ざ》れ」がそれに加わり、気のきいた「戯れ」の意味が、「洒落」と重なったのだ。「たわむれ」とは余裕が生み出すものであるから、この点において「ざれ」と「しゃれ」とは、たしかに一脈通じるところがある。  では、そのような「しゃれ」に、「お」がつくとどうなるのだろう。ここで、いよいよ問題の「おしゃれ」が登場することになる。ところが、この場合の「おしゃれ」とは、「しゃれ」の丁寧語なのではなく、「お」を冠することで、別の意味へ変わってしまった。げんに、どんな辞書にも「しゃれ」と「おしゃれ」とは、別に記載されており、「おしゃれ」の意味は「身なりをかざりたてること・さま・人。fashionable」(講談社版『日本語大辞典』)、「みなりや化粧を気のきいたものにしようとつとめること。また、そうする人」(『広辞苑』)などとある。  つまり「しゃれ」は「おしゃれ」になることによって、本来の陰影を捨て去り、まさしく、ファッショナブルな軽薄《ヽヽ》を身につけたのだ。  私が「おしゃれな」という昨今のはやり言葉を聞いて快く思えないのは、その軽薄《ヽヽ》さのゆえである。しかも、最近さかんに使われるようになったこの言葉は、前記の辞書の意味よりも、もっと、うすっぺらで、無内容で、上すべりのコピー用語にすぎない。そんな言葉を、さも、したり顔に濫用《らんよう》して、それこそ「しゃれた」つもりになっているのを見聞するにつけ、私は、戦後の日本文化の到達点を見せつけられたような気になる。  ひところ「カッコいい」とかいう言葉がやたらにはやった。「おしゃれな」というのは、おそらく、それに代わって使われだしたのだろうが、私にはこのふたつの言葉が、現今の軽薄文化の象徴のように思われてならない。そう、何もかも、ただ、格好だけなのである。それは、まさしくコピーにすぎず、コピーというアメリカ語の意味通り、複写と同時に、宣伝文句のコピー文化を代弁している。  こうした言葉には、江戸時代に創《つく》りだされた美学の片鱗《へんりん》だにない。現代の日本人は、「いき」や「しゃれ」に凝縮された美の実体を、たんなる「カッコウ」に堕落させただけなのである。「おしゃれなレストラン」「おしゃれな雑誌」「おしゃれな部屋」「おしゃれな生き方」……。いったい、その「おしゃれ」とは何を意味しているのか。もし、後世の哲学者が、二十世紀末の日本に流行した「おしゃれ」という言葉を、九鬼周造のように分析し、解釈しようとしたら、そこからどんな文化の�精髄�が導き出されることだろう。  文化とは、ひとつの言葉を、イデアにまで高めていくことである。九鬼周造が「いき」という江戸語に見たのは、「悩みに悩みを嘗《な》めて鍛《きた》へられた心」であり、「浮世の洗練を経て」到達した美意識であった。彼は、それを「野暮《やぼ》は揉《も》まれて粋《いき》となる」という俗言からも、注意深く汲《く》み取っている。「いき」「しゃれ」には、それなりの深い苦悩、諦念《ていねん》、そして、理想、世界観が、しっかりと結びついているのだ。  私は、いまさら、「言霊《ことだま》」などということを言い出すつもりはない。けれど、あまりにも言葉を粗末にし、次から次へと新語を勝手に乱造する現代の日本の精神状況を、じつにやる瀬なく思う。「おしゃれな」というのは、要するに、「ちょっと、いい感じ」といった程度のファッションにすぎず、そこにあるのは、ただ感覚、それもきわめて皮相な感覚でしかない。そして、それを求めて、現代の若者たちはアリのように右往左往して「カッコ」よがっているのだ。なんと貧しい世紀末風景であろう。  文化とは、美の創造である。世界で、もっとも豊かになったといいながら、日本人は、どのような美を創《つく》ってきたというのか。日本の街々の景観が、それを正直に語っていよう。「おしゃれ」なビルは林立しても、調和のとれた美しい街並みなどは、どこを探しても見あたらないではないか。 「おしゃれ」の正体とは、せいぜい、そんなものなのである。 [#改ページ] [#小見出し]   結構きますよ  私は昔から天気が気になるたちで、テレビの天気予報は必ず見ることにしている。  天気情報も最近ではかなり詳しくなり、パリやロンドン、カイロからモスクワにいたるまで、晴れとか、曇りとか、温度さえ伝えるようになった。世界もずいぶん狭くなったものだとつくづく思う。  その天気予報にアメダスなるものが登場したのは、もうだいぶ前のことだが、私は降水確率を示したその数字を見せられるたびに、何とも妙な気になる。そこに表わされているのは、雨の降る確率にはちがいないのだが、どうも、ピンとこないのだ。  たとえば、東京の降水確率が十パーセント、神奈川が二十パーセント、などといわれても、その十パーセントの差がどれほどなのか、さっぱり見当がつかない。数字をあげられると、いかにも正確なイメージを与えられたような気になるが、実際には、東京より神奈川のほうが、|少しばかり《ヽヽヽヽヽ》雨が降りやすいんだな、ぐらいにしか考えられないのである。  とすれば、はたして、こうした数字に、どれだけの意味があるのか。ただ、数字によって、厳密にその差を識別させる、という印象を、|何となく《ヽヽヽヽ》与えているにすぎないのではないのか。  確率というものは、いうまでもなく、もろもろの現象が起こる頻度《ひんど》を数量化したものであり、その数字は、さまざまな予測に不可欠である。まして、コンピューター社会といわれる現代では、それなくしては一日も過ごせない、といっていい。  けれど、考えてみると、私たち人間は、はるか昔から、無意識のうちに確率計算をして、自分の行動を決めてきたのである。それはコンピューターならぬ�カンピューター�ともいうべき「勘《ヽ》」をもとにした「見当」によって行われてきた。そして、その勘は、それなりに充分、役にたってきたように思われる。  いや、日常の生活では、コンピューターよりも、むしろカンピューターのほうが、当たる場合が多い、とさえいえよう。だから、アメダスの数字も、じつをいうと、それを見せられた人は、その数字を自分なりの「勘」に変換して、それで納得しているにちがいない。  人間はそれぞれに、自分が身につけた尺度を持っている。その尺度は、民族によって、とうぜん違うはずである。日本文化は「間《ま》」の文化、などといわれるように、日本人には日本人なりの時空感覚があり、私たちは、その尺度によって世界をながめ、自分の精神世界を形成している。それは意識の�場�ともいうべきもので、日本人はそれを端的に「間」と呼んだのである。  では、そうした日本人の「間」の感覚は、どのくらいの広がりを持っているのだろう。それをはっきり提示することができるのだろうか。  おそらく無理だろう。というのは、そうした「意識の場」は、きわめて直観的で、曖昧《あいまい》なものだからである。ことに、日本人の「間」の感覚は独特の性格を持ち、分析を困難なものにしている。  フランスの地理学者オギュスタン・ベルクは、これを「日本社会特有の空間性」とし、「間」を、さまざまな角度から考察しているが(『空間の日本文化』宮原信訳、筑摩書房)、「間」は日本人自身でも容易に解明しえないものだ。 「間」の感覚は、日常の立ち居振る舞いから、音楽・絵画・工芸・演劇などの芸術、家屋や、街並みにまでに見ることができるが、私がとくに興味をひかれるのは言葉である。というのは、我々の日常語に、独特な「量」の感覚が、数多く使われているからである。  近|頃《ごろ》、テレビのコマーシャルを見て、思わず笑ってしまったのは、あるドリンク剤の宣伝だった。  電車の席で居眠りをしている若い女性が、次第に隣の男の肩にもたれ始め、ついには膝《ひざ》の上に倒れこんでしまう。いささかオーバーだが、よく見かける風景である。もうひとつは、若い男がつり革につかまりながら、これまた居眠りしている。そして、ときどき、ひざをガクン、ガクンと折りながらも、夢中でつり革にすがりついているシーンだ。  問題のコマーシャル・メッセージは、そのあとにでてくる。若い男の顔が大うつしになり、ドリンク剤を手にしながら、こう言うのである。 「結構きますよ!」  日本人なら、誰でもすぐわかる。つまり、だいぶお疲れのようですが、これを飲めば「結構きますよ」という宣伝である。「きます」というのは、この場合、「効きます」と同義だが、それを「きます」と言ったところに、この文句のねらいがある。  というのは、この「きます」、あるいは「くる」という動詞は、たんに「効果がある」というより、「もっと激しく、ときには衝撃的に作用する」というニュアンスを持っているからである。それがなんともユーモラスに響くのだ。たとえば、日本語では、強烈な臭《にお》いをかがされたとき、「つーんと鼻に|きた《ヽヽ》」と言うし、きわめて不快な目にあわされたときには「頭に|きた《ヽヽ》」などと言う。  それはともかく、私が興をひかれたのは「くる」のほうではなくて、その上に冠された「結構」という副詞である。日本人なら、それで充分通じるのだが、さて、これを外国語に翻訳するとなると、どう言い換えたらいいのだろう。そもそも、「結構」とは、それこそ、結構《ヽヽ》さまざまな意味をあわせもっているのである。名詞の用法となれば、まるで違った意味さえいくつもみられるし、副詞的な使い方でも、じつにさまざまな含みがある。  では、この場合の「結構」は、どうなのか。これも解釈しだいで、どうとも受け取れるが、たぶん、こうなのであろう。 「あなたは疲れている。まあ、これを飲んでごらんなさい。あなたが|予想している以上に《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》効果がありますよ。だまされたと思って、ためしてごらんなさい」  これだけの意味が、たった六字で表現されているわけである。とすれば、「結構」の威力たるや、たいへんなものと言わねばなるまい。  ここで大事なのは、「予想している以上に」という点である。前述のように、日本人には日本人なりの尺度がある。その尺度は、私には、他の民族よりも、はるかに控え目のように思われる。別言するなら、日本人は概して悲観的であり、ものごとに過度の期待を持とうとしない、ということだ。なぜなのだろう。期待が裏切られるのを極度に恐れるからである。はじめから期待していなければ、結果が悪くてもあきらめがつく。反対に、結果がよければ、それだけ喜びも大きい。要するに、日本人は、失意や絶望に対して、たいへん臆病《おくびよう》なのである。  したがって、日本人の尺度は、つねに、みずからの臆病に見合った程度に設定されており、いつも、その尺度に照らし合わせて、ものごとの「量」を計《はか》る、という仕組みになっている。そこで、日本人特有の尺度に通じていないと、こうした日本語のニュアンスは、容易につかめないということになる。  むろん、どの民族にも、それぞれの尺度、ないし基準というものがあるはずだから、このことは、なにも日本についてだけ言えるわけではないが、とりわけ日本人は、個人の尺度よりも、世間一般の標準に合わせようという傾向が強いから、やはり、この点については、充分考えるにあたいしよう。  コマーシャルといえば、こんなメッセージもあった。ある保険会社のCMなのだが、「花の命は結構《ヽヽ》長い」というのである。そんな文句を歌っている女優が魅力的なので、私は毎度、つい見てしまうのだが、ここにも「結構」が使われている。  この場合の「結構」も、「予想以上に」という意味がこめられていること、いうまでもあるまい。つまり、「花の命は短くて」という有名な詩が設定した、ひと昔前の日本的尺度を改めて、現代の長寿社会のそれに置き換えているわけである。  それにしても、この「結構」も、日本的な基準、尺度がいかに強固に人びとの胸の中にしまわれているかを語っていまいか。 「あの店の料理はどうかね」 「結構いけるよ」  などという会話もよく耳にする。これも、話し合っている当人同士のあいだで、共通の尺度が、厳然として存在していることを示していよう。この場合の「結構」とは、はたしてどのくらいなのか。その尺度を知らないと、外国人に説明するのにたいへん骨が折れる。  これが英語の very でないことは確かである。他の日本語、たとえば「非常に」とか、「きわめて」に置き換えられないことも事実だ。強いて言えば、「まあまあ」、あるいは「相当」、「まずまず」といったところであろうか。だが、これらの日本語がまた、じつに曖昧で、「結構」と同じように、日本的尺度を前提にしているから、このように言い換えたところで、内容は|客観的に《ヽヽヽヽ》少しもはっきりするわけではない。  いずれにしても、日本人は現実の世界に、いつも一定の枠《わく》をはめて、それを基準に、「見当」をつけているといってよかろう。そして、その心底には、ある種の「あきらめ」が作用しているように思われる。  つまり、この世は自分の期待するようにはいかないのだから、いつも期待を抑え、結果を低めに設定しておくにしくはない、という心構えである。  おそらく、それには、この世を「苦」と観じる仏教的な諦念《ていねん》が、無意識のうちに影響しているのであろう。極端にいうなら、日本人は、はじめから期待していないのである。  しかし、それはニヒリズムではない。積極的に否定するのではなく、ただ、|期待はずれ《ヽヽヽヽヽ》に対する恐怖が強いので、それを避けるために、心理的な防御策を講じているとみるべきであろう。そこで、「結構」という副詞がやたらに使われることになる。「これ、結構いけるじゃない」などという表現には、期待を上回った喜びが言外に溢《あふ》れている。  こうして、「結構」は、本来の意味と結びつく。 「結構」とは、もともと「かまえつくること。組み立てること」(『広辞苑』)だからである。「結構いける」というときの「結構」の副詞的な用法は、そうした「かまえ」に対しての判定《ヽヽ》にほかならない。したがって、重要なのは日本人の、このような世界を見る「間」「尺度」「枠《わく》組み」ということになる。  むろん、こうした控え目の基準に対して、期待を裏切られることもある。その場合は「いまいち」「そこそこ」、そして、その中間ともいうべき「まあまあ」「まずまず」といった表現がさかんに使われることになる。  だが、その「量」や「程度」も、日本人の「結構」を知らないかぎり、理解できない。日本語が曖昧といわれるのは、そのせいである。これらの表現は、はっきりと「量」を示すことがないからだ。 「やがて晴れてくるでしょう」という天気予報を聞きながら、「|やがて《ヽヽヽ》」とは何時間後なのだろう、と私は改めて考えてみた。考えれば考えるほどわからない。  が、それでも、|何となく《ヽヽヽヽ》わかっているような気になるのは、おそらく私が、日本人のカンピューターを内蔵しているからなのであろう。 [#改ページ] [#小見出し]   前向きに善処します 「前向きに善処する」という言い方は、最近では政治家や、行政担当者の決まり文句のようになっており、いまさら、ことごとしく取り上げる気にもならない。が、あらためて考えてみると、この表現には、日本人特有の精神構造が見事に映し出されているように思われる。  精神の基本構造などと、たいそうなことをいったが、哲学者カントによれば、人間の認識において、何より根源的なのは、空間と時間という「直観形式」であり、「前向きに善処する」という言葉には、その「空間」と「時間」とが無意識のうちに融合しているからである。 「前向き」とは、いうまでもなく、前方を見|据《す》えて、という|空間的な《ヽヽヽヽ》捉《とら》え方であり、「善処する」というのは、今後の自分の行動を予想しての決意表明であって、未来を期した|時間的な《ヽヽヽヽ》意識にほかならない。  つまり、この言葉は、日本人の時・空感覚を、そのまま語っているわけである。  時間と空間について考えるとなると、やたらに、ややこしくなる。カントが『純粋理性批判』で、どれほどこの問題について思索を重ねたか、同書の一ページを読んだだけで、すぐに気づくだろう。だから、私はここで、時間、空間についての哲学的論議をやろう、などというつもりは、さらさらない。  ただ、空間や時間にかかわる日本語を、ふと顧みたとき、日本語のなかに、時・空という人間の認識能力の基本形式が、独特のかたちで相互移入していることに気がついたのである。私は思わず考えこんでしまった。  たとえば、「まえ」である。「まえ」とは「目方《まへ》」の意で、目の向く方向、すなわち、前方という空間感覚に由来している。「お前」という二人称は、かつては自分の前にいる人を、「御前《おんまへ》」と尊敬して言ったものだ。それが、いつのまにか、目下の者に用いる日常語になったわけである。このように「まえ」とは前方を意味し、したがって、どの辞書を引いても、「前」の反対語は「後(あと、うしろ)」となっている。  ところが、奇妙なことに、話が時間となると、その意味が逆転してしまうのである。空間的には「まえ」は前方を意味するのだが、時間的には反対に、うしろ、つまり、過去を指す言葉となるのだ! たとえば、「一週間前」「三年前」という具合である。  なぜなのだろう。「まえ」とおなじ意味を持たされている「先(さき)」という日本語にいたっては、未来も過去も、ごちゃごちゃになって使われている。 「さきごろ」といえば、「すこし前」、すなわち過去を指すが、「五年さき」というと、未来をあらわす。このように、同じ「さき」でも、あるときは過去を、べつのときは未来を、という始末である。 「前」と同じことは、「後(あと)」についてもいえる。「後」という言葉は、それが空間的に用いられる場合には、いうまでもなく「うしろ」を意味する。  たとえば、歩いている自分を考えてみよう。私が歩いていく前方は「まえ」であり、歩いてきた後方は「うしろ」である。他方、時間というのは、不可逆であって、いうなら、前へ、前へ、と流れている。もし、こうした空間の表象を、そのまま時間へ投影するなら、とうぜん、未来は「前」ということになり、過去は「後」ということになろう。それなのに、時間と空間を表現する場合、そのイメージが、不思議なことに、逆転してしまうのである。  ふたたび、歩いている自分を考えてみる。これから到達する地点は「前」にあり、歩いてきた道程は「後《うしろ》」にある。だが、それを、時間という観点に移してみると、これまで歩いてきた時間は、すくなくとも、何分か「前《ヽ》」のことであり、これから歩いて目的地に到着するのは、何分か「後《ヽ》」ということになる。  むろん、これは、なにも日本人に限ったことではない。英語でも before と after は、空間の場合と時間をさすときでは逆転しているのだから。  しかし、日本語では、前《ヽ》記の「さき」が示しているように、それがさらに混乱しているのではなかろうか。  カントによれば、人間は時間を思い浮かべるとき、必ず空間的なイメージで考えるという。  たしかにそうで、たとえばヨーロッパでは直線のように、日本でも「ゆく河の流れは絶えずして……」と『方丈記』の冒頭にみられるごとく、線上に流れていくもの、として表象されている。  だとすれば、空間と時間とを言いあらわす言葉は、同じようなイメージで使われてしかるべきなのに、それがまったく反対になっているのは、どういうわけなのか。  言葉というのは、ふだん、無意識に使っていると、その奇妙さに気がつかないものだが、あらためて考え直してみると、何から何までが不思議に思われてくる。  人間は、ものを考えるときには、かならず言葉で考える、という。だとすれば、私たちは、常に自分たちが使っている言葉の意味を、繰り返し反省してみる必要がありはしないか。すると、言葉のすべてが謎《なぞ》めいてくる。  じっさい、そうではないか。かりに、あたりを見回したり、自分のからだをつくづくと眺《なが》めたりすると、何から何までが不思議の連続だ。たとえば、目は日本語で、なぜ「め」というのか。「目」は木の「芽」と何か関連があるのか。足はどうして「あし」というのだろう。誰が、いつ、どんな動機で「あし」と名付けたのか。こんなふうに挙げていけば、「机」にしろ、「家」にしろ、「山」にしろ、「川」にしろ、言葉の全部が謎を秘めている、ということになってしまう。  名詞だけではない。動詞、形容詞、副詞、いや、言葉おしなべて、まるで暗号のように思われてくる。そこで、語源探究が行われるわけだが、どのような探索にも限度があり、一定の地点で立ち止まらざるを得ない。しかも、その推理は、さまざまに成り立つから、言語学者、ことに国語学者は語源の詮索《せんさく》を嫌《きら》う。日本語の辞書に、ほとんど語源が記されていないのは、そのせいである。うっかり語源を断定すると、たちまち反論が出てきて、へたをすれば学者的生命を失いかねないからだ。  それにしても、人間の頭のなかで、空間と時間との表象が逆転してしまうという奇妙な現象は一考に値しよう。それはなぜなのか? 何を意味しているのだろう。  時間の場合には、順番、序列という概念の枠《わく》組みがある。むろん、それは空間についてもいえるが、とくに時間ではその意識が強い。「早い者勝ち」「先着順」といった序列である。この枠組みに従うと、現在が起点となり、その起点が最優先されることになる。そうなると、次にくるものは、時間の上では未来であっても、序列的には第二次的なものと見なされる。したがって、優先順序からいうなら「あと」、つまり「うしろ」のように表象されるのであろう。  私は中学生のころ、運動場で、よくマラソンをさせられた。走るのが遅い私は、いつもビリに近かった。グラウンドを何周もするわけだから、とうぜん、先頭を走っている生徒よりも、おしりに近い自分のほうが前を走っているように見えることがある。こうなると、まわりで見ている人間には、いったい誰が前で、誰が後なのか、わからなくなる。  日本人の時間のイメージも、これに似た構図を持っているのではあるまいか。空間の場合は前後がはっきりしていても、目に見えない時間となると、その前後の見境《みさかい》がつかなくなってしまうのだ。  とすると、日本人の時間感覚は、必ずしも直線的なイメージではなく、反復したり、循環したりする体《てい》のものなのかもしれない。そこで、「あと」が「さき」になったり、「さき」が「あと」になったりすることが起こるのだろう。  日本人は、よく「|あとさき《ヽヽヽヽ》も考えず」などという。「前後《ヽヽ》不覚」ともいう。その意味は、「あと」と「さき」、「まえ」と「うしろ」が区別できないわけがない、それなのに——ということだろうが、はたして、日本人は本当に「あとさき」を厳密に区別しているのだろうか。むしろ、グラウンドのマラソン風景のようなものとして、時間を受け取っているのではあるまいか。  日本人は、古来、時間を「継《つ》ぎ継《つ》ぎ」に生起するものとして表象してきた。「夜を日に継いで」というわけである。『万葉集』に収められている人麿《ひとまろ》の有名な歌にも、「神のことごと栂《つが》の木の いや継ぎ継ぎに 天《あめ》の下 知らしめししを……」とある。時間とは、まるで糸や布を継ぐように延びていく、というイメージである。この「継ぐ」から、「次ぐ」が生まれた。 「継ぐ」とは、「絶えないようにあとを続ける。継承する。相続する」(『広辞苑』)ことであり、ここからも察せられるように、つながりを意味している。つまり、時間は切れ目のない線ではなくて、むしろ「継起」といった概念に近い。人間の世界では、死や誕生がその「継ぎ目」を明示しており、一年では四季が、一日では昼と夜が、その意識を強めたに違いない。  こうした日本人の時間意識に、やがて仏教の輪廻《りんね》といった円環的な観念が影響を及ぼし、さらに明治以降は、ヨーロッパの直線的な時間概念が加わって変質させていった。が、いずれにせよ、日本人の時間意識には「継ぐ」あるいは「次ぐ」という観念が、その根底にある。  それは、日本人の時間のイメージが、常に順序、あるいは序列と並列していることを示している。つまり、あるときは物理的な時間の流れによって考えられ、別のときには序列・順番で決められる、というわけである。ここから、時間の前後が、しばしば逆転してしまうことになる。  序列、順番というのは、別言すれば、優先順位である。つまり、最優先されるものが第一にくる。それが時間的に先行していても、遅れていても、その順位には関係がない。そこで、その序列をもとにすると、時間の流れとは逆行するという現象が起こる。日本人の時間意識に、時の流れと、優|先《ヽ》順位とが並列していることから、「さき」が時間的に「まえ」になったり、「あと」になったりするということがありうるのだ。  たとえば、「今いそがしいから、あとで」といえば、その「あと」は時間的には未来を意味するが、優先順位で考えれば、「二の次ぎ」ということになる。そこで、未来が「あと」になるのである。 「さき」という言葉が、あるときは将来を指し、別のときには過去を示すというのは、時間の流れと、優先順位とが、無意識のうちに使い分けられていることを語っている。講釈師が、扇子をならしながら歴史的な事件を語るとき、「これ|より《ヽヽ》先」といえば、「この時以前」の意味であり、「これ|から《ヽヽ》先はお楽しみ」というと、それが逆になって、「以後」ということになる。なんと複雑怪奇な表現であろう!  さて——そうなると、政治家の常套句《じようとうく》、いや�逃げ口上�ともいうべき「前《ヽ》向きに善処します」という言葉は、どう受け取ったらいいのだろう。  どうやら、反対に、「後《ヽ》ろ向きに」、つまり、「以前同様、何もいたしません」と解したほうがよさそうである。 [#改ページ] [#小見出し]   死語累々  ギリシアの哲人ヘラクレイトスはいった。「パンタ・レイ panta rei[#底本ではギリシャ文字]」。万物は流転する。日本流に言い換えるなら「諸行無常《しよぎようむじよう》」である。時はとまらない。  中国の詩人、李白《りはく》も言っている。 「天地は万物の逆旅《げきりよ》、光陰《こういん》は百代《はくたい》の過客《かきやく》」  たしかに、すべてのものは移り変わる。もし、万物が永遠に不変だとすれば、そのほうが、よほど不気味であろう。不気味というより、この世はおよそ退屈きわまりないものになってしまうはずだ。  だから兼好法師は記す。 「世はさだめなきこそいみじけれ」  それにしても、世の変転があまりに急なのも、これまた、味気ない。兼好が、このうえなく「あはれふかい」としたのは、折節《おりふし》の移り変わりであった。  彼はこう言っている。  ——春が暮れたあとに夏が来て、夏が終わったあとに秋が訪れるのではない。「春はやがて夏の気を催《もよほ》し、夏より既《すで》に秋は通《かよ》ひ」というふうに、すべては、気付かぬうち、予兆を秘めつつ推移していくのだ……。  ところが、昨今の世相の変貌《へんぼう》は、あまりにも速すぎる。そして、その急変を現代の人たちはとうぜんのように受け取り、歓迎しているかにさえ思える。いまの日本人は、新しいものに、最大の価値を置いているのだ。その証拠に、「古い」ということが、無価値と同然の扱いを受け、「古い」という一言で、どんな意見も、たちまち葬り去られてしまうではないか。  そんなわけだから、すべては束《つか》の間《ま》に無価値となり、惜しげもなく捨てられて、安っぽいものに変わっていく。私たちが日々使っている調度品はもとより、生活そのものまでもが�日々新たなり�という有様である。  風景も例外ではない。わずか一か月たらずの旅から帰っても、街の風景は一変している。ことに東京の変貌ときたら、信じられないほどだ。  私が育ったころの東京は、国木田独歩が描いた、あの『武蔵野《むさしの》』の面影《おもかげ》を、まだ、いたるところにとどめていた。が、いまや人工的な公園以外に、それらしきものはすっかり姿を消した。独歩の小説の題名になっている『竹の木戸』など、いまや、遠い昔の風物でしかない。  暮らしのかたちが一新したのだから、私たちが使っていた言葉の数々が、つぎつぎに死んでいくのも、とうぜんなのであろう。私たちの前には、死語が累々《るいるい》と横たわっている。同じ言葉が使われていても、その意味は以前とまったくニュアンスを異にし、いや、意味が正反対になってしまっている場合さえ少なくない。  だいぶ前のことだが、こんな話を聞いて、びっくりした覚えがある。「公私混同」とは、公《おおや》けの場に私《わたくし》ごとを持ち込むことであり、とうぜん非難されるべき行為、とされていたのだが、最近では、それが逆転して、私《わたくし》ごとの中に公《おおや》けが入《はい》り込むこと、と解されているらしいのである。日曜日に、上司から仕事上の連絡電話がかかってきたとき、その若い部下は、「公私混同をしないでいただきたい」と、憮然《ぶぜん》として抗議したというのだ。  逆転というなら、よく引き合いに出されるのが、「情けは人のためならず」という諺《ことわざ》の解釈であろう。情けをかけることは、|相手のためにならない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、というのが新解釈なのだそうだ。あらためて言うまでもないが、この格言の真意は、人に情けをかけることは、最終的には自分の身のためになる、ということである。  それが、まったく逆転して、そんなふうに考えられているのは、なぜなのだろう。子供は甘やかし放題、若者はやりたい放題、という現状が、かえってこのような解釈を生んだのかもしれない。  ある日、本屋で橋本治氏の編著になる『消えた言葉』という新刊をみつけて、我が意を得た、とばかり、さっそく買ってきて読んだ。目次には、まさしく、死語が累々と並んでいた。「茶の間」にはじまり、「練炭《れんたん》」「炭団《たどん》」「洗濯板《せんたくいた》」「蠅帳《はいちよう》」「行水《ぎようずい》」「軒端《のきば》」「どぶ」などから、はては「貧乏」「深窓《しんそう》の令嬢」「愚連隊《ぐれんたい》」まで。  たしかに、こうして挙げられると、これらの言葉は知らぬ間に死語に等しくなっている。  しかし、私が何より愕然《がくぜん》とするのは、これまで日本人の行動の基準、倫理の規範とされて生きつづけてきた言葉のほとんどが、死語と化している現状である。  たとえば、「恥」だ。戦後まもなく翻訳されてベストセラーになり、いまでは古典的な名著となっている『菊と刀』のなかで、著者であるアメリカの文化人類学者、ルース・ベネディクト女史は、日本文化の本質を、「恥の文化」と規定した。そして、それを、欧米の「罪の文化」に対置した。だが、彼女が日本を解くキーワードとした「恥」そのものが、現在の日本では、すでに�古典的観念�となってしまっているのである。いや、�骨董《こつとう》的�というべきかもしれない。  もちろん、「恥」という日本語は、いまでも立派に生きている。私たちは「恥をかく」、「恥ずかしい」、「恥さらしだ」などという表現を、日常の会話のなかで、しばしば使ってはいる。けれど、「恥」という言葉には、かつてのような重みが、もう、すっかりなくなってしまった。それは、現代風に言い換えるなら、「カッコ悪い」というに過ぎず、いささかも倫理的な反省の力を持っていない。その例は、いたるところにころがっている。  問題は言葉そのものではなく、言葉の持っている内容である。つまり、何をもって「恥」とするか、言葉の中身が、およそ�軽・薄・短・小�に変質したのである。それを何より正直に証言しているのが、当今の政治家たちの言動であろう。  昔は政治家の素顔は、ほとんど知られることがなかった。新聞の政治面は、政界のさまざまな動きを報じてはいたが、その報道は、たんに活字の上だけのことであって、彼らがいったい、どんな表情で、何を言い、口にする言葉と裏腹に、どんな策略をやってのけているのか、ひとりひとりの人格が如実《によじつ》に現れる、というようなケースは珍しかった。ところが、テレビの登場で、国会の問答や、選挙活動や、私生活まで写し出されるようになったので、政治家の|なまの《ヽヽヽ》姿をじっくりと見る機会が、それだけふえた。そこで、初めて、よくわかるようになったのかもしれない。  それにしても、昔と比べ、現在の政治家たちが、いかに�現代風�になったか、私はテレビを見るたびに痛感させられる。ことに汚職事件を伝えるテレビの画面から、彼らの「恥」の感覚が、どれほど変質したか、いやというほど思い知らされるのだ。道徳教育の重要性を喋々《ちようちよう》する人物が、裏で「恥も外聞もない」ような行動を平気でやってのけ、それが露顕しても、恬《てん》として恥じる様子がない、そのあまりに厚かましい表情を見ると、「恥の文化」などといわれた日本に、もはや、「恥」というものは�絶滅�したのではないか、とまで思われてくる。 「恥」は、たしかに生き残っているように見える。が、その性格は内面的なものから、外面的なものへと�脱皮�したのである。「恥ずかしい」ということは、たとえば、流行に遅れることであり、新しい風潮に無知なことであり、極端にいうなら、これまで考えられていたような「恥」を「恥」とすることでさえあるのだ。  証明はいらない。テレビを一見しさえすれば、いくらでも例証に事欠かないではないか。大のおとなが、子供顔負けのバカげたしぐさを大仰に演じて、恥じる様子はさらさらなく、それどころか、これこそ新しいユーモラスなパフォーマンスだ、といわんばかりにのさばっている。  日本のテレビのコマーシャルを見た外国人が、「日本人は正気なのか」と、まじめな顔で私に聞いたことがある。私は返事に窮した。  私は、テレビというメディアは、じつに恐ろしいものだと、つくづく思う。そこに登場する人間は、人格のすべてを、丸だしにしてしまうからである。場合によると、じっさいに付き合っても気づかないような細部までが、生々《なまなま》しく映し出されてしまうのだ。この意味で、テレビカメラは、嘘《うそ》発見機と同じ機能を備えているといってもいい。「人品骨柄《じんぴんこつがら》」が、テレビのスクリーンほど、はっきり現れるメディアはないのではあるまいか。  ところで、その「人品」であるが、この「品《ひん》」というのも、死語になりかけている。いや、すでに死語といってよかろう。  かつて、日本では、何より「品《ひん》」が重んじられた。日本人である私は、いまでも人格の第一条件を「品」に置いている。「品」とは、もともとは仏教で、生前にどれほどの功徳《くどく》を積んだかによって凡夫《ぼんぷ》を分けた「上品《じようぼん》」「中品《ちゆうぼん》」「下品《げぼん》」に由来するが、ここから「品位」「気品」「品格」といった人柄に関する概念が生まれ、育った。日本人は、これまで、「下品《げひん》」といわれることを、このうえない「恥」としたのである。ところが、その「品」も、「恥」と同様、大切な精神性を失い、もっぱら外面的な、つまり「品物《しなもの》の等級」程度にしか考えられなくなってしまった。「品《ひん》」は蛻《もぬけ》の殻《から》になったのだ。  現代人は、人間に関して、ほとんど「品格」を問題にすることはない。それどころか、かつて「下品」とみなされたことが、逆に歓迎され、これこそ|正直な《ヽヽヽ》人間の姿だ、などと思いこんでいる始末である。だから、テレビに出演して、「下品」なしぐさや、「下品」な言葉遣いを乱発する人間ほど人気があがる有様である。  討論番組でも、やたらに大声を張りあげ、不作法で、攻撃的で、粗雑な人間ほど受ける。日本はなんと「下品」な国になりさがってしまったことだろう。いまや、この国に「上品」などというものは、ほとんどみられなくなった。それでいて、九〇年代は�貴族化�の時代なのだそうだ! なんという滑稽《こつけい》な精神風土であることか!  私はいたずらに、昔を美化するつもりはない。なぜなら、いつの時代にあっても、昔はよきものであったからである。ふたたび兼好の言葉を思い出せば、彼にとっても、「昔」は「今」より、はるかに良かったようである。 「何事も、古き世のみぞ慕はしき。今様《いまやう》は、無下《むげ》にいやしくこそなりゆくめれ」と、彼は慨嘆している。  しかし、繰り返すが、私はただ�古き良き時代�を懐《なつ》かしんでいるのでは、けっしてない。あまりにも急激に変質してしまった日本の風潮に、不安を隠しきれないのだ。そのような昨今の日本の風潮を、何より正直に語っているものこそ、累々たる死語の群れであろう。 「礼儀」はマナーというカタカナ語に変わって、「恥」と同様に精神性を喪失し、「責任」は、ただ口先だけの「言い逃れ」に堕し、「人徳」は、たんなる「人気」にすり変わった。  死んだものは二度と甦《よみがえ》りはしない。とすれば、こうした死語は、今後、けっして復活することはないであろう。そのとき、日本は、いったい、どんな国になり果てていることだろうか。それを考えると、ぞっとする。 [#改ページ] [#小見出し]   独断と偏見  テレビの討論番組を見ていたら、司会者が「今夜はひとつ、独断と偏見で、おおいに討論してください」と言った。そう言わないと、出席者が思いきった発言をしないので、こんなふうに切り出したにちがいない。  たしかに、日本人は議論が下手である。議論どころか、会話さえ苦手なのだ。だから、映画にしろ、テレビ・ドラマにしろ、さっぱりおもしろくない。気のきいた言葉のやりとりが、まったくといっていいほど聞かれないからである。  むろん、それはシナリオ・ライターの責任にちがいないが、ヨーロッパでは脚本家とは別に、会話だけを、さらに検討するライターがいる、と聞いた。欧米では、それほど会話を重視し、台詞《せりふ》をドラマの生命とさえみなしているのだ。考えてみれば、とうぜんの話である。ドラマは登場人物の会話で成り立っているのであるから。  それはともかく、さきの討論番組で、司会者が口にした「独断と偏見でやりましょう」という言葉を聞いて、私は妙な気になった。この表現が、日本人の特質を、正直に告白しているように思われたからである。  そういえば、雑誌の座談会などでも、こうした言葉は、よく聞かれる。  なぜ、そんなことを、わざわざ言うのだろう。理由は、こうとしか考えられない。つまり、日本人は「独断」といわれ、「偏見」と攻撃されることを、ひたすら恐れているからなのである。  しかし、これはずいぶん奇妙な話ではあるまいか。なぜなら、意見というものは、あくまで個人が抱くものであり、判断というのは、各人がそれぞれに下すものだからである。だとすれば、すべての意見は、文字通り「独《ヽ》断」にほかならず、あらゆる判断は、とうぜん「偏《ヽ》見」ということになる。そう。人間の社会は「独断」と「偏見」によって構成されているのだ。  私は、かなり長いあいだ新聞記者生活を送ったが、その間に、いちばんよく聞かされたのは、「偏向」という言葉だった。読者からの手紙には、しばしば「偏向している」といった抗議の文句が書かれてあり、電話でも同じような非難を受けた。私は、ただ黙って相手の言い分を聞くだけで、別に反論はしなかった。反論のしようがないからである。 「偏向している」と批判する当人は、むろん、自分の判断に照らして、そう思っているのであろうが、それには、自分の判断こそが絶対に正しいという確信が前提になっている。あえて、自分の判断とは言わないまでも、この世の中には絶対的な価値基準があって、そのものさしを当てると、かたよっている、と言いたいのだろう。  しかし、そのような絶対に正しい基準などというものが、あり得るだろうか。もし、あり得るとするなら、人間社会に、なんの問題もないはずである。みんなが、その「絶対に正しい基準」に従って判断し、行動すればいいわけであるから。  そんな基準がないからこそ、議論は成り立つのであり、さまざまな考えが力を競《きそ》い、人間社会に活気を与えているのではないか。文化とは、こうした判断の相違から形成される、といってもいいのである。 「独断」なる言葉は、いうまでもなく、ひとりで決める、という意味である。ただし、それは何人かで、あることを相談すべきときに、自分だけで勝手に判断を下してしまうことなのである。  しかし、討論や座談というのは、相談ずくで行うものではない。だから、そこで求められているのは、とうぜん、出席者ひとりひとりの「独断」でなければならず、したがって、意見を異にする人からみれば、それは自分の主張から「偏向」していることになる。意見とは、そもそも、「独断」と「偏見」のことなのだ。  それなのに、なぜ、「独断と偏見でやりましょう」などと、わざわざことわらなければならないのだろう。  もう、おわかりのことと思う。日本人は「異をとなえる」ことに、きわめて臆病《おくびよう》だからなのだ。そこで、自分の意見を言うときには、なるべく、世間一般に「基準」と思われているものから、はずれないように発言しようとし、自分の判断が、他人と違っていることが予想されるような場合には、あらかじめ、攻撃されるのを防ぐため、先回りをして、自分から「独断と偏見ですが」と釈明しておくわけである。  こころみに和英辞典を引いてみたら、「独断」にあたる単語はみあたらなかった。ギリシア語に由来する「ドグマ」が、それに近い意味に用いられてはいるが、そもそも「ドグマ」とは、「|思う《ドケイン》」というギリシア語から派生した言葉であって、それがやがて「定説」の意味になった。しかし、「定説」というものは、いつか必ず覆《くつがえ》されるものだ。にもかかわらず、どこまでも「定説」に固執しているものを指して、ギリシアの懐疑論者は「ドグマティコイ」とあざけり、ここから「ドグマ」が「独断」の意味を持つようになったのである。  それはともかく、「ドグマ」という言葉が、前記のようにギリシア語の「思う」からきているということは、まさしく、人間の意見というものが、あくまで、個人の判断であり、すなわち「独《ヽ》断」であることを語っている。  では、日本語でしばしば使われる「独断」の反対語は何なのだろう。興にひかれて、手元の『反対語辞典』(東京堂版)なるものを繰ってみたら、見あたらなかった。つまり、「独断」には反対語がないのである。  だから、たとえば、何か政治的な意見をたたかわせているようなときに、「それはきみの独断だ!」と言われて、反論しようと思ったら、「いや、独断|ではない《ヽヽヽヽ》」としか言いようがないわけだ。  では、「独断ではない」というのは、いったい、どんな判断なのだろう。  おそらく、これは自分ひとりの意見ではなく、大勢の人たちだって同じように考えている、ということなのであろう。とすれば、大勢の人たちが、同じように考える、ということが、正しさを証明する基準になっており、意見の主張者は、その「大勢」を楯《たて》にして、自己の正しさを証明しようとしていることになろう。  けれども、大勢の人間が考えているからといって、その判断が正しい、とは、けっして言えはしない。げんにそれは、これまでの歴史が証明しているではないか。かりに、ひとりの判断より大勢の判断のほうが正しいとしても、いったい、その「大勢」がどのように考えているのか、世論調査でもしないかぎり、見当がつくまい。  しかし、日本の場合、そうした「大勢」のイメージが、いつも暗黙のうちに前提されており、何から何までが「世間」の「常識」の名において、個人の判断の基準とされているのだ。  ところが、そのような「大勢」や「常識」なるものは、およそ漠然《ばくぜん》としており、物差しのように、はっきり提示できるものではない。「大勢」とは、社会を構成する人間の、どのくらいの数をさしているのか、「常識」とは、どの程度の判断領域を示しているのか、その中身は何なのか、だれも明確には答えられまい。にもかかわらず、日本では「世間の常識の範囲内」というのが、裁判の判決の根拠にまでなっているのだ!  ところで、その「大勢」であるが、これは「|おおぜい《ヽヽヽヽ》の人間」を意味すると同時に、「|たいせい《ヽヽヽヽ》」でもある。「たいせい」とは、「大きな権勢」「大体の形勢」「世のなりゆき」(『広辞苑』第三版)でもある。その「たいせい」について、柳田国男はこう書いている。 [#ここから1字下げ] ——……(日本人は)それとなく世の中の大勢をながめておって、皆が進む方向についていきさえすれば安全だという考え方が非常に強かった。いってみれば、魚や渡り鳥のように、群れに従う性質の非常に強い国なのである。(柳田国男編『日本人』) [#ここで字下げ終わり]  彼がそう書いたのは、戦後まもなくのことであったが、こうした性格は、依然として今日の日本を支配しているようだ。現代は多元的な価値観の時代、などといわれているが、多様化したのは、ごく表面の趣味・趣向ぐらいであって、本来の性格というものは、なかなか変わるものではないらしい。「独断と偏見で」という言葉が、それを正直に告白していると私は思う。  なぜなら、日本人は、前記のような漠然とした「おおぜい=たいせい」を、つねに判断の拠《よ》り所として、それを免罪符のように考えているからである。  私が記者時代に、何より不思議でならなかったのは、日本の新聞が、なぜこうも似ているのか、ということだった。紙面の建てページも同じなら、各紙面のレイアウトまで、互いに区別できないほど、そっくりなのである。どうして各紙は申し合わせたように、第一面の下に一段組のコラムを設けているのか。それに始まって、第一面から最後のテレビ番組欄にいたるまで、ほとんどといっていいほど同じような紙面づくりをしている。  私は在社中に、せめて第一面の下にあるコラムぐらいは、他紙と形を変えた方がいいのではないか、と先輩に言ったことがある。  すると、その先輩は私にこう言った。 「きみはいったい、何年、記者をやっているんだ。同じだというが、よく見ろ、違っているではないか」 「へえー、どこが違っているんですか? ぼくにはコラムのタイトル以外、まったく同じように思えますがね」  すると、彼は各紙を並べて、そのコラムを示しながら、こう教えてくれた。 「いいかい、この段落の印をよく見ろ。『朝日』は黒い三角形が下を向いているだろう。ところが『毎日』は上を向いているし、『読売』は黒いダイヤ型になっているじゃないか」  私は唖然《あぜん》とした。たったこれだけの違いなのである。だが、先輩は続けて、こう言った。 「いくら紙面の形が似ていても、書かれている内容が違えば、それでいい。げんに、編集方針は、各紙それぞれ違っている。そのくらいわからなくてどうする」  はたして、そうであろうか。|いくぶん《ヽヽヽヽ》ちがっている、といえるかもしれないが、形を同じくすれば、中身は、いつの間にか似たり寄ったりにしてしまう。日本は情報化社会といわれ、マス・メディアの数もじつに多い。にもかかわらず、新聞をはじめ、テレビ、雑誌、すべてにわたって同工異曲を競っているのは、形を同じくするからなのである。  個性で勝負すべきはずのマス・メディアが、みずから進んで保護色をまとい、身を寄せ合っているかのごとくみえる情景は、奇観という以外にない。それも、ひとえに「独断と偏見」を恐れるゆえなのであろう。  日本は世界屈指の�経済大国�になった。とうぜん、世界の目はこの国に注がれる。異国の知人が一様に首を傾《かし》げるのは、こうした日本社会の画一性である。それが「和」の真髄だとすれば、私たちは、そろそろ別の「和」を見出すべきではないか。その「和」とは、「独断と偏見」こそが、各人の発言理由であって、しかも、それぞれの意見が、活力となりつつ、最終的に社会の調和をもたらす、そのような多彩な、成熟した社会の原理である。 [#改ページ] [#小見出し]   要約すると  かつて、新聞社の入社試験には、きまって談話筆記というのがあった。最近は、どうか知らないが、もし私が試験官なら、いまでも、この種のテストを行うだろう。  というのは、人の話を聞いて、それを簡潔に、要を得てまとめる、というのは、きわめてむずかしい作業だからである。極端にいうなら、新聞記者に限らず、雑誌の編集者など、ジャーナリストの能力は、それだけでわかる、といってもいいほどだ。  というのも、活字メディアにかかわる人たちの必須《ひつす》の条件が、近ごろ、ひどく甘くなっているように思われるからである。ろくに文章も書けない記者、談話の要約も満足にできない編集者、世間一般の常識さえ持ち合わせないジャーナリストが目立ちすぎるのだ。それでいて、当人は一人前のつもりなのだから、手に負えない。  入社試験といえば、時事問題といって、何項目かにわたり、いろいろな用語や国際知識をテストすることは、いまでも行われているようである。そこで、ジャーナリズム志望者は、試験前に、新聞や雑誌などを、手当たりしだい読んで、それに備えるらしい。そして、この難関を突破して入社し、さらに社内研修などで基礎訓練を受けるわけだが、それにもかかわらず、およそ常識はずれの記者が多すぎる。  常識はずれどころか、突拍子もない質問が飛び出すので、いったい日本のジャーナリストの資質は、どうなっているのか、愕然《がくぜん》とせざるをえない。  一九八九年の夏のこと、私はイラクの首都バグダードにいた。バビロンの遺跡を訪ねるのが目的だった。たまたま、泊まっていたホテルに各国からの特派員がおおぜい集まっていたので、何事かと思って聞いてみると、クルド族の公開自治選挙が行われるので、イラクの政府が世界のジャーナリストを招待した、ということだった。クルド族というのは、イラク、イラン、トルコをはじめ、シリア、ソ連などにまたがる山岳地域に住む民族で、その歴史は紀元前二千年紀にまでさかのぼる、といわれる。きわめて独立心が強く、それだけに、彼らを抱える国々の政府は、それぞれ、その対策に苦慮しており、イラン・イラク戦争の背後にも、クルド問題が大きくかかわっていた、と見られている。そこでイラク政府は、同国内のクルド族の自治選挙を公開して、その民主化《ヽヽヽ》の実情を世界に宣伝してもらおうとしたのである。  むろん、日本からも代表的な新聞、テレビの特派員がバグダード入りをしていた。私はホテルのロビーで、何人か、その姿を見かけた。  その晩のこと。イラク駐在の日本大使から夕食の招待を受け、公邸で歓談のひとときを過ごしたのだが、その席上、信じられない話を聞かされた。イラク政府が取材にあたる各国の特派員を集め、ブリーフィングを行った際、日本の代表的《ヽヽヽ》な新聞の特派員が手を挙げて、イラク情報省の係りに、こう質問したというのである。 「私はクルドについて、よく理解していません。私の無知をお許しください。私がお聞きしたいのは、クルドとは、どのように料理するものなのか、ということです」  この記者は、クルドを、なんと、料理の材料だと思っていたのである! その質問に対して、イラクのプレス担当官が何と答えたのか知らないが、その場に同席していた大使は、あとで、その担当官から、きつい皮肉を言われたと、私にこぼした。  私も長年、新聞記者をやり、特派員も経験したが、こんな非常識な話は考えられない。クルドについての取材許可を受けたならば、せめて、調査部で調べてくればいいではないか。クルド族に関する知識なら、百科事典をひいただけで、その歴史から言語、人口、文化などが簡単にわかる。それすらせずに、クルドを料理だと思い、物見|遊山《ゆさん》のようなつもりでバグダードまでやって来るとは、まったく常軌を逸している。  これなどは非常識の最たるものだが、問題は、このような記者を特派員に仕立てている新聞社の見識《ヽヽ》である。こんな調子だから、文章が下手だろうと、談話筆記がいいかげんであろうと、そんなことは、いまの新聞にとっては、何の問題にもならないのであろう。げんに、その手の記事がいたるところ目につく。  私は新聞記者時代、インタビュー記事を書くのに、おおいに苦労した。インタビューというのは、話題にもよるが、たいていは三、四十分かける。場合によれば、一時間以上に及ぶこともある。それをわずかな字数で、肝心な部分を、読者に明瞭《めいりよう》に伝えなければならない。おそらく、新聞原稿でインタビュー記事が、いちばんむずかしいのではないかと思う。注意して相手の話を聞いていても、つい、大事なことを聞き漏らしてしまうことが、たびたびある。また、相手によっては、早口で、立て板に水を流すごとく、まくしたてる人もいる。そうなると、メモをとることでさえ容易ではない。  しかし、私がこうしたインタビューで、あらためて思い知らされたのは、自分では注意しているつもりでも、相手の言葉をけっして忠実に聞いていない、ということだった。たとえば、相手が「ぼく」といったのか、「わたし」といったのか、それさえ記憶していないのだ。  そんなことは、どうでもいいではないか、と思われるかもしれない。が、その人が自分をどう呼ぶかで、当人の性格や人柄《ひとがら》がうかがえるものなのである。とすれば、こうした点も、けっして、等閑に付すべきものではあるまい。  インタビューというのは、そのくらい注意力を要する仕事なのである。  新聞社を辞《や》めてから、私は、今度は逆に、インタビューを受ける立場になった。原稿を頼まれたとき、忙しいので勘弁して欲しい、と断わると、それではインタビューをさせてもらえまいか、と要求される。自分が書くのではなく、相手が私の言ったことをまとめてくれるのだから、それなら、といって応じると、しばしば、それがひどいことになる。  インタビューを頼まれるのは雑誌の場合が多いが、さて、何日かのち、一応目を通して欲しい、といって送られてきた原稿を見て、私はお手あげの状態になる。まさしく、手がつけられないのだ。主語は不明。「てにをは」はいい加減。同じ表現が、同じ段落に二度も三度も出てくる。「である」調が、とつぜん「です、ます」調にかわっている。なかには、速記録そのまま、といっていいほど乱雑な文章がある。  私は、そういうゲラを前に、ただ怒りがこみ上げてくるだけである。かといって、私にはそのままの文章を活字にする勇気はない。そこで、手を入れ始めるのだが、しまいには、�生地《きじ》�よりも�つぎ�のほうが多い始末となる。こんなことなら、初めから自分で書いたほうがよかった、と何度悔やんだことだろう。  だが、喉元《のどもと》を過ぎれば熱さを忘れる。次に、また頼まれると、まさか、今度はそんなことはあるまい、と希望的な観測で、つい引き受け、再び難行苦行の目にあう。  インタビューより、もっと始末が悪いのが、講演を文章にまとめさせて欲しい、と要求される場合である。まとめられたもののほとんどが、およそ、文章の体《てい》をなしていないのだ。しかも、一時間以上の講演を活字にしようとすれば、かなりの量になる。それに手を入れて欲しいと言われて、私はどれほど、えらい苦労をさせられたことか。  おそらく、同じ思いをしている同業者は、ずいぶん多いことだろうと思う。たまたま、講演で一緒になった講師から、私は何度もそのような苦情を聞き、�同病相|憐《あわ》れ�んだものだ。  いったい、どうしてこんなことが起こるのか。  その謎《なぞ》は、ある日、なるほど、とわかった。私が真っ赤になった原稿やゲラを返したとき、その編集者が、皮肉と抗議の意をこめて、こう言ったのである。 「ずいぶん手が入りましたね。このとおりにしなければいけないんですか。わたしは先生の口調を生かして、おもしろくまとめたつもりなんですけどね。それを直してしまうと、面白味がまったく消えてしまいますよ」  つまり、インタビューや講演の要旨をまとめた当人は、これこそ、「臨場感にあふれた」文章と思っているのである。  だが、「臨場感」などというなら、試みにその辺の喫茶店にでも入って、隣のテーブルで何人かが話しているのを録音し、それを、そのまま文字に直してみたらいい。かつて、ある国語雑誌が、そんな実験をしていた。  私はそれを読んで、人間の「話し言葉」というものが、どれほど「読む言葉」「書く言葉」と違うか、いやというほど思い知らされた。忠実に、録音どおり文字化された文章は、乱雑、無秩序、不完全で、ほとんど意味をなしていないのである。  むろん、会話をしている人たちの間では、そうした表現でも、けっこう通じあっている。会話とか、談話とは、そういうものなのだ。だから、それがそのまま文章になると思うのは、とんでもない錯覚《さつかく》なのである。  ところが、文章とは、ふだん、我々が喋《しやべ》っている言葉を、そっくり文字化したものと、かなりの人が思いこんでいるようだ。げんに、小学校の作文の教師たちは、子供たちに「思ったことを話すように書きなさい」などと教えている。思ったことや、話したことが、|そのまま《ヽヽヽヽ》文章になるなら世話はない。  おそらく、最近のジャーナリストは、こういう作文教育を受けてきたのであろう。そこで、いくら乱雑な文章でも、いや、乱雑な文章であればあるほど、「臨場感」あふれる「ナウい」文体だ、などと思いこんでいるに違いない。  じっさい、いたるところ、そういう文章が、わがもの顔にまかり通っている。いまや、文章をじっくり味わうような習慣は、すっかりなくなってしまった。意味さえ通じれば、それでいい、と思っているのだ。それどころか、意味が通じなくても、感覚的に、なんとなくわかれば、そのほうがぴったりくる、というわけだ。  日本語の乱れを嘆く声は聞こえるが、こうした文章の乱雑さは、ほとんど問題にされていない。文学の衰退現象は、こんなところにも原因があるのだろう。  要約する、ということは、さらに難しい。ところが、そのような訓練も、ほとんどなされていないようだ。  ある国立大学で、文学部の教授が、ドストエフスキーの『罪と罰』を要約せよ、というレポートを課したところ(むろん、翻訳書で)、最初の一ページをそのまま写して、「あとは長くて書けません」と書いてきた学生がいたという。  まあ、そんなもんだろう。日本の社会を大きく左右するはずのジャーナリストたちが、こんな学生のような頭で記事を書き、非常識というより無知を恬《てん》として恥じないのをみると、私は、暗澹《あんたん》を通り越して、絶望のどん底に沈むのである。 [#改ページ] [#小見出し]   ら・り・る・れ・ろ  もう二十年以上も前のことだが、私はパリのオペラ座に近いグラモン通りにある小さなホテルに住んでいた。そこを常宿のようにして、あちこちの国を旅して歩いていたので、パリのそのホテルにもどってくると、まるで、わが家にたどりついたような気がしたものだ。  ところが、空港からホテルに帰るのが、ひと苦労だった。タクシーをつかまえて、通りの名前を告げるのだが、何度くりかえしても通じない。「リュー・ドゥ・グラモン(Rue de Grammont)」という私の発音が、相手に通じないのだ。自分ではフランス人並みに言っているつもりなのだが、運転手には、まったく違って聞こえるらしい。私は情けないやら、腹立たしいやら、しまいには「勝手にしやがれ」という気持ちになった。  それをパリ在住の友人に話したら、彼は笑いながら、こう教えてくれた。 「君のRの発音が悪いんだよ。だいたい、日本人にはRとLの区別もつかないんだからなあ。日本語のラリルレロの音は、どちらかというとRに近いんだが、それでも微妙に違うんだね。とくにフランス語のRは咽喉の奥で音を出すから、むしろ、Gの音に近い。こんど言うときには、グラモンと発音しないで、グガモンと言ってごらん。かならず通じるから」  いいことを聞いた、と思い、つぎに空港からホテルに帰るとき、私は得意満面に「リュー・ドゥ・グガモン」と言った。すると、運転手は、すぐに「ウィ、ダッコール(はい、わかりました)」と言って、走りだした。  なるほど、こう言やあ、いいんだな、と、私はすっかりうれしくなって、急にフランス語がうまくなったようなつもりになった。  ところが、どっこい、そうは問屋がおろさない。 「ヴォアラ、イシィ(はい、ここです)」と言って車を停めたので降りてみると、どうも様子が違っている。見たこともない通りなのである。おかしいな、ここはいったいどこなんだろう、と思って近くの標識を点検してみると、なんと、そこはヴァンセンヌの森に近い「リュー・ドゥ・ガボン」なのだった!  同じような体験をドイツでも味わった。ベルリンの私のホテルは、「グリューネヴァルト(Grunewald)」にあったのだが、これがなかなかうまく発音できない。日本流に言うと、容易に通じないのだ。「グリューネ」のリュはRであり、ヴァルトのルはLである。だから、パリのグラモンより、もっとむずかしいのだ。  そこで私は、同じように、ベルリン在住の知人にこぼしたところ、彼はパリの友人と同様、発音のコツを、こう教えてくれた。 「グリューネなんていうからダメなんだよ。RをGに発音したらいい。つまりググーネと言うんだ。つぎにLだが、これは日本人にはIに近く聞こえる。だから、グリューネヴァルトはググーネヴァイトと言やいいんだ」  やれやれ、私には発音の才がないらしい。そのため、どれほど外国で苦労したことか。  たしかに日本人にとって、いちばん難しいのはRとLの発音、つまり、ラ・リ・ル・レ・ロの微妙なニュアンスのちがいである。ところが日本人は、なぜか、この音を、たいへん好んでいるように思われる。だから日本語にきわめて多い擬音語や擬態語のかなりが、ラ・リ・ル・レ・ロの音を伴っているのだろう。  げんに、私が子供のころに歌った童謡は、ラ行の擬音語で満ち満ちていた。  たとえば、北原白秋の『アメフリ』である。一番から五番の歌詞まで、その最後は「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」となっている。「アルス」という出版社から出ていた「日本児童文庫」の『日本新童謡集』は、白秋の童謡を集めたものだったが、私は何十年も前に、読んだり歌ったりしたその歌詞を、いまでもはっきり覚えている。  そこに「五十音」という題のおもしろい歌があった。   水馬《あめんぼ》赤いな、ア、イ、ウ、エ、オ。   浮《う》き藻《も》に小鰕《こえび》もおよいでる。  にはじまって、カ・キ・ク・ケ・コ、サ・シ・ス・セ・ソから、最後のワ・ヰ・ウ・ヱ・ヲまでが続く。そしてラ行は、こんな歌詞である。   雷鳥《らいてう》は寒かろ、ラ、リ、ル、レ、ロ。   蓮花《れんげ》が咲いたら瑠璃《るり》の鳥《とり》。  私には、なぜか、ラ行が、ほかの音より、なんとも快く耳に響いたものである。その童謡集の目次をながめると、つぎのような歌の題が並んでいる。 「か|ら《ヽ》たちの花」、「|り《ヽ》ん|り《ヽ》ん林《ヽ》檎《ご》の」、「|リ《ヽ》ス・|リ《ヽ》ス・コ|リ《ヽ》ス」、「アカイト|リ《ヽ》、コト|リ《ヽ》」、「ふく|ら《ヽ》雀《すずめ》」、「とんか|ら《ヽ》こ」、「ぐ|る《ヽ》ぐ|る《ヽ》廻《まは》り《ヽ》」、「こ|ろ《ヽ》こ|ろ《ヽ》こ|ろ《ヽ》橋」、「かへ|ろ《ヽ》かへ|ろ《ヽ》と」(傍点引用者)……。  擬音語ばかりではないが、なんと、ラ行の音の多いことか。子供にとってラ行の音は、思わず歌い出したくなるような響きを持っているにちがいない。  むろん、これは日本人だけの特性ではなかろう。ヨーロッパ人にとっても、RやL音は、やはりリズミカルに響くようだ。ラ・ラ・ラ・ラという音を重ねた歌詞は、よく見られる。たとえばウェーバーの歌劇『魔弾の射手』の中の有名な「狩人《かりゆうど》の合唱」は、各節「la, la, la, la, la」でしめくくられている。  それにしても、日本人は、やはり、ラ行音に特別の親しみを感じているに相違ない。  たとえば、人称代名詞や指示代名詞のほとんどが「れ」で構成されている。「だれ」、「かれ」、「われ」、かつて使われた「なれ」をはじめとし、「これ」、「それ」、「あれ」、「どれ」という具合である。  擬音、擬態語に至っては、枚挙にいとまないほどだ。思いつくままに並べてみれば、「さらさら」、「するする」、「からから」、「くるくる」、「ほろほろ」、「ころころ」、「くりくり」、「はらはら」、「きらきら」、「くらくら」、「つるつる」、「ふらふら」、「だらだら」、「とろとろ」、「ゆらゆら」、「ぶるぶる」、「びりびり」、「きょろきょろ」といった同音を重ねる言葉はもとより、「ふんわり」、「すっきり」、「ほんのり」、「すんなり」、「うんざり」、「じっくり」、「はっきり」、「こんがり」、「がっかり」、「むっちり」、「やんわり」、「きっちり」、「しっかり」、「あっさり」……。  そして、それらが清音、濁音で意味を変えるのだから念が入っている。  これほどまでラ行を使いながら、こと、外国語となると、RとLの区別もつかず、「グラモン」という通りの名でさえ、相手に通じる発音ができないとは、われながら不思議である。しかし、それは、むろん、日本人の発声の仕方が、ヨーロッパ人と異なっているせいである。  じっさい、日本人は擬音、擬態語をたいへん好む。たとえば日本の代表的な詩ともいうべき俳句の有名な句は、擬音語で溢《あふ》れている。  これも挙げれば、きりがない。   ほろ/\と山吹ちるか滝の音   芭蕉《ばせう》   ひよろ/\と猶《なほ》露けしや女郎花《をみなへし》  〃   春の海|終日《ひねもす》のたり/\かな    蕪村《ぶそん》   てら/\と石に日の照《てる》枯野かな  〃  庶民的な句を得意とした一茶に至っては、擬音句集と言ってもいいほどだ。任意に開いた『一茶俳句集』から拾ってみると、   おんひら/\蝶《てふ》も金比羅参哉《こんぴらまゐりかな》   なの花や灯《ひ》のちらちらに小雨《こさめ》する   草刈のざくり/\や五月雨《さつきあめ》   たのもしやてんつるてんの初袷《はつあはせ》   行《ゆき》あたりばつたり/\団《うちは》哉   本町《ほんちやう》をぶらり/\と蛍《ほたる》哉   瓜《うり》西瓜《すゐくわ》ねん/\ころり/\哉  一茶はこうした擬音、擬態語を発明までしている。  雪が「へらへら」降る、とか、葵《あおい》が「によい」と立つ、とか、柳が「ちよんぼり」見える、とか、桔梗《ききよう》が「きりきりしやん」と咲く、とか、汁《しる》の実が「ほちやほちや」ほける、とか、彼は擬態語の達人といってもよかろう。一茶が日本人に好まれるのは、おそらく、このような日本的語感によるところが大きいのではあるまいか。  そういえば、万葉の名歌とされるのも、ラ行の耳に快い響きの歌である。たとえば坂門人足《さかとのひとたり》の一首。   巨勢山《こせやま》のつらつら椿《つばき》つらつらに     見つつ偲《しの》ばな巨勢の春野を  また、大伴家持《おおとものやかもち》の次の歌。   うらうらに照れる春日《はるひ》にひばり上がり     心悲しもひとりし思へば  このように万葉の昔から、日本人はラ行音が大好きだったのだ。そういえば、私の好きな歌もラ音を効果的に用いた作品のような気がする。紀友則《きのとものり》の「しづ心なく花のちる|ら《ヽ》む」や、後徳大寺左大臣《ごとくだいじのさだいじん》の「入|り《ヽ》日を洗《ヽ》ふ沖つし|ら《ヽ》浪」等々である。  おそらく、これは日本語の音韻のリズム感に由来するのであろう。だから、そうした音感で育てられる日本人は、ラ音にひかれるのだ。私たちの世代も、子供のころは漫画に夢中になったものだが、最大の人気者はなんといっても、田河水泡《たがわすいほう》の「のらくろ」だった。いや、「のらくろ」はいまでも、キャラクター商品として活躍している。この野良《のら》犬の名前「の|ら《ヽ》く|ろ《ヽ》」はラ行音を巧みに使った命名である。おそらく、そのネーミングが「のらくろ」を子供たちの人気者にしたにちがいない。  こうした�伝統�は、こんにちにまで及んでいる。たとえば「ド|ラ《ヽ》えもん」である。「ド|ラ《ヽ》ゴンボー|ル《ヽ》」の「ク|リリ《ヽヽ》ン」である。「ア|ラレ《ヽヽ》ちゃん」である。「とな|り《ヽ》のトト|ロ《ヽ》」である。すべてラ行音をうまく取り込んでいるではないか。  そこで、私はあらためて五十音図を前にして、ア・カ・サ・タ・ナの順にラ・リ・ル・レ・ロの音を組み合わせていった。すると、かなりの組み合わせが、すでに日本語の擬音語や擬態語に使われていることに気付いた。たとえば、つぎのように。  アは「あらあら」、イは「いらいら」、ウは「うろうろ」、エはまだ作られていないようだが、オは「おろおろ」という具合である。ラ行そのものに「ン」をつけて作られる擬態語、たとえば「ランラン」「リンリン」「レンレン」などの語は、漢語の「爛々《らんらん》」「凜々《りんりん》」「恋々」からきているのだが、その間隙《かんげき》を縫うようにして、「ルンルン」などという表現も定着してしまった。  日本人が、いかにラ行音にこだわっているかは、「|ろれ《ヽヽ》つが回らない」とか、「|らりる《ヽヽヽ》」といった言葉にもあらわれている。「らりる」とは、「睡眠薬などを飲み、舌がまわらなくなる」の意味(小学館版『日本国語大辞典』)である。  こうまでラ行を気にする日本人が、それでいて、R音とL音をうまく区別できないとは!  わが体験をかえりみながら、私は苦笑を禁じえない。 [#改ページ] [#小見出し]   文 化 人  形式論理学に「排中律」というのがある。「AがBではなく、また、非Bでもないということはありえない」という原理である。いかにも、あたりまえのようであるが、乱暴にいうなら、白か黒か、厳密にいうなら、白か白でないもの、で、それ以外にはない、ということだ。つまり、その間に何も認めないという公理である。  私はそのような形式論理を弄《ろう》するつもりはないが、人間の思考というものは、だいたい、こうした原理から組み立てられている。コンピューターも、そうではないか。この機械は、0か1かで成り立っており、0と1との間に何ものも認めない。だからこそ、すばやく情報を処理できるのである。  さて、この原理からすると、「文化人」なる言葉は、きわめて人をバカにした命名のように思われてならない。なぜなら、世に「文化人」と呼ばれる人は、あちこちにいるようだが、もし、彼らが「文化人」だというなら、それ以外の人は、みな「非文化人」となってしまうからである。私はこの言葉を聞くたびに、なぜ、「非文化人」が怒りださないのか、不思議で仕方がない。  もっとも、自分から「私は文化人です」などという人はいまい。そんな言葉を使うのは、だいたい、テレビや、新聞や、雑誌などで、それを知らされるのは視聴者や読者である。それなのに、こんな言葉はおかしい、という声を、いまだに聞いたことがない。  ということは、「文化人」なる概念が、何の疑念もなく世の中にまかり通っている、ということなのであろう。  では、いったい、「文化人」とは、どういう人種なのか。辞書をひいてみれば、いちおう、もっともらしい定義が書かれているが、私が疑問に思うのは、日本ではおよそ「文化」の何たるかが、曖昧模糊《あいまいもこ》としているからである。そんな漠然《ばくぜん》としたものに「人」をつけて、特定の人間をそう呼び、だれも疑問に思わないことが、私には、どうにも解《げ》せないのだ。  どういうわけか、日本人は、やたらに「文化」という言葉を使いたがる。とくに最近は「文化」が企業の戦略《ヽヽ》にまで利用される有様である。まるで、あらためて「文化」の存在に気づいたような始末だ。こうした「文化」の氾濫《はんらん》をみると、私は明治の「文明開化」時代に引き戻されたような気になる。 「文化」という言葉は、「文明開化」がつづまってつくられた、という説がある。あるいはそうなのかもしれない。日本人の「文化」好き——といっても、それはたんに「文化」という言葉を好くだけの話なのであるが——は、おそらく、そのころから始まったのであろう。  黒船の到来、異国の文物、それにおどろいた日本人は、舶来のすべてを「文化」と思いこんだのである。だから、この言葉には、あこがれに近いイメージが、こびりついている。  だが、あこがれというものは、けっして、はっきりとした輪郭を持つものではない。だから、日本人はあこがれによって「文化」の概念をふくらませ、その正確な意味を追究しなかったのではあるまいか。  とはいえ、学問的に「文化」を論じるような場合は、こうした曖昧なイメージですますわけにはいかない。  そこで、改めて『哲学事典』(平凡社版)を繰ってみると、「文化」はつぎのように説明されている。 [#ここから1字下げ] ——英・独・仏語のいずれの場合も、その「文化」概念はラテン語の cultura に由来し、もともと栽培を意味していたものが、転じて一方では教養を、他方ではある社会あるいは集団に固有の生活様式を意味するようになった。このうちドイツ語では教養的な意味がつよく、英語とくにアメリカ流の文化人類学では、生活様式的なものへの傾斜が大きい。…… [#ここで字下げ終わり]  たしかに、そうなのである。「文化」という言葉は、国際的に共通のイメージを持っているわけではなく、ドイツにはドイツ流の、アメリカにはアメリカ式の、フランスにはフランスふうの解釈がある。だから曖昧なのが当然のように思えるが、それはただ、「文化」の定義に�統一見解�がないだけのことであって、それぞれの国では、それなりに明確な観念として定着しているのだ。  ところが、日本には、およそ、日本独自の定義がない。明確な概念が与えられず、混乱のまま放置されている有様だ。そこが問題なのである。  では、どうしてそうなったのか。  明治以降、戦前まで日本語の「文化」には、ヨーロッパふうのイメージが強かった。つまり、「文化」とは、シェイクスピアやベートーヴェンに象徴される精神的なもののように受け取られていたのである。  そこへ、戦後、アメリカ流の「文化」概念が入ってきた。それはそれで一向にかまわないのだが、問題はそのふたつの「文化」概念が、混淆《こんこう》したまま共存するようになったことなのである。  アメリカ流の概念によれば、「文化」とは「生活様式」を指す。もし、そう解釈するなら、「文化国家」とは何なのか。「文化勲章」、「文化功労者」、「文化の日」、「文化庁」、「文化政策」、「文化団体」、それに問題の「文化人」も含めて、いったいこれらを、どう受け取ったらいいのだろう。  アメリカ流に解すれば、「文化国家」とは、生活様式を持った国、ということになるが、世界中で生活様式を持たぬ国はあるまい。すべての国は「文化国家」となる。さらに、「文化勲章」は生活様式に寄与した人に与えられる勲章となり、「文化の日」は生活様式を讃《たた》える日、「文化庁」は生活様式をつかさどる官庁という具合になって、まったく意味をなさなくなる。  とすれば、こうした「文化」という言葉の使い方は、おそらくドイツふうの「教養」的価値といったイメージによっているのだろう。  では、このようなイメージから、現在使われている「文化」のつくものを解釈すると、どういうことになるのか。「文化都市」、「テレビ文化」、「カード文化」、「コピー文化」……。これらは、いうまでもなく生活様式を変えた技術を「文化」とするアメリカ式定義によっているにちがいない。精神的な価値も、技術的な成果も、ごちゃごちゃにして使われるから、日本語の「文化」は、いよいよわけのわからないものになってしまったのである。私が「文化人」というのを奇妙な言葉と感じるのは、このような混乱のゆえなのだ。 「文化」という言葉は、学問の世界でも、今世紀初めごろから、さかんに使われるようになった。  とくにドイツでは、新カント派の哲学者が、自然《ヽヽ》科学に対して「文化《ヽヽ》科学」の特質を強調したことで、一挙にひろまった|観がある《ヽヽヽヽ》。たとえば、リッケルトの説によると、自然科学は一般化《ヽヽヽ》することによって自然法則を見出すのに対し、「文化科学」は個別化《ヽヽヽ》的な方法によって人間的、社会的現象を記述する、というのである。つまり、「文化」は、「自然」に対置され、とくに精神的な領域を意味するようになった。  ところが、そのような哲学的な「文化」解釈に対して、アメリカの学者、なかんずく文化《ヽヽ》人類学者は、「文化」の概念を拡大し、人類の生活様式すべてを含めて「文化」とした。こうして、学問の世界でも、「文化」についての定義は無政府状態となってしまった。  そこで、「文化」に関して論じようとするならば、まず、「文化」という言葉を、きちんと定義することから始めないと、議論が噛《か》み合わないことになる。おそらく、「文化」ほど、学者たちを困らせているものはないのではあるまいか。  だとすれば、日本人が曖昧なままに、やたらと「文化」を連発しているのも無理からぬ話なのかもしれない。が、それにしても、日本人の「文化」に対するイメージは、あまりにも雑駁《ざつぱく》でありすぎる。現代の日本人にとっては、何から何までが「文化」なのだから。  例をあげれば、いくらでもある。アイスクリームをなめながら歩いたり、穴のあいたジーンズや、意味不明の横文字を大書したTシャツで闊歩《かつぽ》したりすることさえ、「若者|文化《ヽヽ》」と見られている。こうなると、「文化」とは「不作法」と同義語のように思えてくるし、テレビで、いい大人が悪ふざけしてみせ、それが「広告|文化《ヽヽ》」などといわれているのを聞くと、「文化」イコール「幼児化」、というのが、日本での定義ではないか、という気にさえなろうではないか。  ところで、私がこれほどまでに「文化」という言葉にこだわるのは、日本語の「文化」の意味が、こんなふうにふくれあがっていくなら、すべてが「文化」になってしまう、それをおそれるからである。  何もかもが「文化」と考えられるのなら、「文化」は、なきにひとしい。戦後、日本は科学技術の面でおおいに発展し、それとともに経済的に豊かな社会を実現することに成功したが、かんじんな「文化」は、ほとんどといっていいほど育たなかった、と私は思う。いや、多くの人がそう思っているからこそ、これからは「文化」の時代だ、などといっているのではないか。  科学技術がつくり出したさまざまな生活革命を「文化」とみれば、たしかに日本は「文化」的に向上したにちがいない。けれど、「文化」を精神的な結晶として考えるなら、これほど「文化」が貧しくなった時代はなかった、といってもいいほどだ。  むろん、これは日本だけの現象ではなく、世界的に見られる傾向である。同じ世紀末といいながら、前世紀末と今世紀末の現在をくらべてみたら、それは一目|瞭然《りようぜん》であろう。だから人びとは、十九世紀末に花開いた美術や文学を懐《なつ》かしみ、それに郷愁を感じているのである。  なにはともあれ、現在の日本の精神的状況をながめてみたらいい。世界の「黒字大国」といわれるこの国には、情報が氾濫し、それを伝えるメディアの技術も日進月歩の状態にある。  だが、そうした高度な技術によって開発されたメディアが、いったい、|何を《ヽヽ》人びとに伝えているのだろう。知的な会話は、くだらぬゴシップに席を譲った。内面的な探究は、外的なファッションに取って代わられた。まともなものは姿を消し、それに代わって、誇張され、異様にデフォルメされ、しかも、この点で画一化された|しろもの《ヽヽヽヽ》が「文化」の仮面をかぶって横行している。そして、人びとの関心は、もっぱらグルメとイベント、文字通り「パンとサーカス」に集中しているではないか。  これが「豊かな社会」、「高度情報社会」、「ポスト・モダン社会」の正体なのだ。  その原因は、いったい、何にあるのだろう。私は一言のもとに答えることができる。  いまの日本に「文化」がないためだ。いや、「文化」という言葉が何を意味するのか、それにどんな定義を与えるべきか、それさえ、まともに考えようとしないからである。  もし、「文化人」なるものがいるとするなら、そう呼ばれる人たちこそ、この難問に立ち向かうべきではないのか。 [#改ページ] [#小見出し]   き た な い  これまで、日本人の美点といわれ、日本人自身がそうだと思いこんでいる特性が、いくつかある。  たとえば、日本人は自然を愛する民族である、日本人は清潔好きで、美的な感覚の持ち主である、日本人は礼儀正しい国民である、日本人は繊細な神経を身につけている、日本人は几帳面《きちようめん》な性格だ……。  私は、従来強調されてきた、これら日本人論のすべては、まったくの錯覚《さつかく》であり、たんなる一人合点にすぎないと思っている。いや、とんでもない、その逆ではないか、とすら思わざるをえない。  もし、日本人が前記のような性格の持ち主だとするなら、どうして、かけがえのない日本の美しい山河を、こうも乱雑に破壊し、自然を平気で傷つけることができるのだろうか。  いいや、日本人は、そんな人種ではないのだ。その証拠は、私たちの身近な環境を見回して見れば、歴然としている。たとえば、町並みを眺《なが》めたらいい。なんと雑然とし、醜い情景がいたるところ続いていることか。大都会のメイン・ストリートは、いちおう整《ととの》った外観を見せるようになったが、大通りをちょっと入ってみると、これが豊かな国の町なのかと、信じられない思いがする。  高級住宅地とされる地区でさえそうだ。しかも、そこが、一坪何百万円、ときには何千万円もするというのだから、驚きを通り越して、笑いたくなる。  まあ、通りを見てみたまえ。薄汚いセメントの電柱が林立し、蜘蛛《くも》の巣のような電線が空を汚している。商店街にはビニールの造花の飾りつけが埃《ほこり》をかぶって、これ見よがしにぶら下がっている。何というデザイン! そして、広告の立看板は無規制のままのさばっている。こんな町並みを散歩する気になど、とうていなれない。私はただ急ぎ足で通りすぎるばかりだ。  貧しい国というのなら、それも仕方があるまい。ところが、日本は世界で一、二を争う金持ち国なのである。金がありあまっているのだ。どうして、そのありあまった金で、町並みや道路を、少しでもきれいにしようとしないのだろう。生活環境の美化に努めないのだろう。  答えはあきらかである。だれも、このような風景を醜いと思わないのだ。もし、日本人が美しさを愛する民族だとするなら、何よりもまず、自分たちの住んでいる地域をきれいにしようとするはずではないか。まっ先に、目障りな電線を地中に埋め、醜悪なセメントの電柱のかわりに並木を植えているはずだ。それだけで、日本の町の雰囲気は、どれほど変わることか。  たしかに、それには費用がかかる。しかし、ヨーロッパの町々を見るといい。日本ほどの経済力はなくとも、じつに美しい町並みを誇っている。彼らは窓辺を、色とりどりの花で飾り、町並みの美化に、多額の金と労力をそそいでいる。美しく暮らすために、彼らは費用を惜しまず、きびしい規制を設け、市民は一致して住環境の保全に努力しているのだ。  そんなわけで、私はヨーロッパから帰ってくると、日本の町並みの、あまりの惨めさ、あまりの乱雑さに絶望的になる。どうして日本人は、きたないことに、こうも平気なのだろう。  日本人は、美には敏感だが、醜には鈍感だ、と指摘する人がいる。たしかに、そう言えないこともない。が、考えてみると、それは矛盾命題というべきだろう。というのは、醜に鈍感な人間が、美に敏感であるはずがないからである。だから私は、あえて言いたい。  日本人は美に鈍感であり、とうぜん、醜に鈍感なのである、と。  しかし、日本人が見事な絵画や彫刻、工芸品などによって独特の美術を生み出してきたことも確かである。そうした繊細な美と、現実の醜とは、いったい、どういう関係にあるのか。日本人にとって、「うつくしい」とは、どんな意味を持っているのだろう。  国語学者、大野|晋《すすむ》氏によると、「うつくしい」という形容詞は、万葉時代には、夫婦や父母、妻子、あるいは恋人に対する親密な感情の表現であった、という。つまり、もっぱら対人関係に用いられていたのだ。それが平安朝時代になると、「小さい者への愛情の表現」に変わっていったらしい。『枕草子《まくらのそうし》』には「なにもなにも小さき者はみなうつくし」とあるのを氏は引きつつ、「うつくしい」という言葉は「小さい者への愛情、あるいは可憐《かれん》の感情を表わしたもの、と言っていいであろう」(『日本語の年輪』)と述べている。そして、「うつくしい」という言葉が「美」そのものを表わすようになったのは、室町時代から、ということだ。  では、「うつくしい」の反対語である「きたない」という言葉の意味を、日本人は、どのように表象し、どんなものをそう考えてきたのか。  語源辞典を調べてみると、「きたなし」のキタは「分《きた》」、「段《きた》」で、従って「条理無シ」からきている、とある(井口丑二『日本語原』)。『日本語語源辞典』(藤堂明保監修・清水秀晃著)も、同様の解釈をとっており、「きたなし」とは、「ものの区別・理非のわきまえがなくてみにくいこと」とある。  念のため、別の辞典(賀茂百樹『日本語源』)にあたってみると、「きたなし」のキタは、同じように「段」とされているが、ナシは「無し」ではなく強調の意、と解されており、つまり「きだきだ(寸々)にて物の用にならぬもの」から転じて「汚穢《をあい》なるものを云《い》ふなるべし」とある。さらに『古語辞典』(岩波版)を繰ると、「きたなし」のキタはキタシ(堅塩《きたし》=焼いた黒い堅塩《かたしお》)のことで、ナシは「甚《はなは》だしい」の意、とあった。  どれが正解なのか、私には断言できないが、いずれにせよ、無秩序で、乱雑なものの状態を、日本人は「きたない」と考えていたようである。  だとすれば、どうして現代の日本人は、乱雑で無秩序な町並みを「きたない」と感じないのだろう。  そのわけは、「きたない」の反対語である「うつくしい」の語意に秘められていると私は思う。  大野氏が指摘しているように、日本人にとって「うつくしい」とは、そもそも「小さい者への愛情」から生まれた美感であった。だから、日本人は小さなもの、身近なものに対しては、きわめて繊細な感覚を育ててきたが、それを大局的な視線にまで拡《ひろ》げることができなかった。つまり、巨視的な視野が完全に欠落することになったのである。  私はここでF氏の姿を思い浮かべる。職場の先輩だったF氏は、じつに潔癖で、几帳面な性格の持ち主だった。彼はオフィスに入ってくるやいなや、まず自分の机の上を、さも、|きたならし《ヽヽヽヽヽ》そうにフッと吹く。それでも足りず、備えつけのふきんで、何度も卓上をこする。椅子《いす》も同様に始末して、それからやおら腰をおろすのである。  ちょっとでも埃《ほこり》やゴミがテーブルの上、椅子の肘《ひじ》掛けに付着しているのに、彼は耐えられないのだ。その様子は、私には病的にさえ思えた。  しかし、私が理解できなかったのは、それほど|きれい《ヽヽヽ》好きの彼が、ちょっと離れた場所には、まったく無関心だったことである。そんなにきれい好きなら、もうすこし自分の周辺に目をやったらどうなんだ、と思った。ところが彼は、自分のほんの一メートル四方だけに、異常とも思える潔癖感を発揮しているのである。これこそ、日本の美的感覚の典型ではないか。  日本人の美意識は、このように、じつに狭い領域、せいぜい一メートル四方に限られている、といっていい。その先は、もう目に入らない。だから、まわり全体を秩序だった空間にし、居心地よい環境にしよう、などという考えは、ほとんど見られないのである。  こうした微視的な環境意識は、住まい方に、そのまま通じている。日本人は自分の居場所、せいぜい家の中だけは、できるだけきれいにしようとする。けれど、自宅から一歩外に出た通りが、電柱や電線、看板や空き缶《かん》などで、見るも無残な光景を呈していても、ぜんぜん気にしない。なぜなら、通りというのは公共の空間であり、それは自分と無関係な場所、と思いこんでいるからである。  ドイツの建築家ブルーノ・タウトは桂《かつら》離宮の美に感嘆し、また、日本の家屋の多くに見られる床の間を絶賛して、「地球上、どのような芸術創造を見渡しても造形美術に使用するものとして床の間程に精緻《せいち》を極めた形式を創《つく》り出したところは何処《どこ》にもない」とまで言った。  たしかに、そうかもしれない。しかし、床の間というのは、ほんの狭い空間にすぎない。日本人は、そこに軸をさげ、花を飾り、置物を据《す》えて鑑賞する。だが、部屋の外に向かっては、ぶざまな洗濯《せんたく》物を平然と吊《つ》るし、屋根やテラスには、きたないふとんを、恥ずかしげもなく干している。自分だけが見えるわずか一メートルの視野において、日本人は見事な美的空間を演出することに、独特の才能を発揮してきた。だが、十メートル、二十メートルの視野で、外側を含めた場においては逆に、この上ない醜をつくり出しているのである。日本の町並みがそれをそっくり反映しているといってよかろう。  こうした日本人特有の美意識を、私は「一メートルの美学」と名付けたい。別言すれば、それは「床の間美学」でもある。たしかに、そのような微視的《ヽヽヽ》な範囲において、日本人は類《たぐ》いまれな才能を示してきたが、その距離が少しでも拡がれば、もう日本人の美意識は少しも働かないのである。日本の代表的な芸術が、それを正直にあらわしており、日本の代表的な詩が、それをはっきりと証しているではないか。  たとえば、俳句である。日本の詩を代表する俳句の世界は、そのほとんどの作品が「一メートルの美学」で成り立っている。こころみに芭蕉《ばしよう》のいくつかの句を拾い出してみたらいい。つぎのような。   明《あけ》ぼのやしら魚《うを》しろきこと一寸《いつすん》   よくみれば薺《なづな》花さく垣《かき》ねかな   山路《やまぢ》来て何やらゆかしすみれ草《ぐさ》   しら露もこぼさぬ萩《はぎ》のうねり哉《かな》  あげればきりがあるまい。こうした美を見出した芭蕉の目と、詠《よ》まれた句材との距離は、せいぜい一メートル足らずではないか。  むろん、「荒海や佐渡《さど》によこたふ天河《あまのがは》」、「暑き日を海に入れたり最上川《もがみがは》」といった雄大な景を詠んだ句もないわけではないが、だいたい、俳句とは矚目《しよくもく》の微細な世界をとらえるところに、その本質がある。  ここに私は、日本人とヨーロッパ人の、美意識のへだたりを見る。日本人の視野が一メートルなら、ヨーロッパ人の視線は、少なくとも十メートル以上に及ぶ。つまり十倍の距離である。最近、俳句が西欧人にもてはやされているようだが、それは俳句の、このような微視的《ヽヽヽ》な美が、彼らにとって珍しいからにちがいない。  さて、そこで、「きたない」という日本語だが、もし、その語源が、「段」、「分」であり、無秩序や条理のないさまに由来するなら、どうして日本の町々の乱雑さを日本人は「きたない」と思わないのだろう。  そのわけは、日本人の醜に対する意識が「うつくしさ」に対する感覚と同様、わずか一メートルの視野に限られているからだ、と私は思う。 [#改ページ] [#小見出し]   人  間   花ちりて木間《このま》の寺と成《なり》にけり  蕪村《ぶそん》  べつに何ということもない風景であるが、私はどういうわけか、この句が好きなのである。  桜が散って、いつの間にか青葉の季節となり、花にふちどられていた寺が、木の間がくれに見えるようになった、という句意である。たったそれだけのことなのだが、ゆく春の情感が、じつに見事にとらえられているように思われてならない。  なぜなのだろう。考えてみると、この句の秘密は、どうやら、「木間《このま》」という言葉にあるような気がする。そう思いあたったとき、私は自分がつくづく日本人であることを痛感した。何をかくそう、日本人は「あいだ」が大好きなのである。それは、和歌や俳句のいくつかを思い浮かべてみれば、すぐわかる。  たとえば、和歌というなら、私にとって忘れがたい歌は、前にもふれたが、『新古今和歌集』に収められている後徳大寺左大臣、藤原|実定《さねさだ》の次の作である。   なごの海の霞《かすみ》の間《ま》よりながむれば     入り日を洗ふ沖つしら浪《なみ》  これとそっくりな情景に、しばしば接したからかもしれない。が、ここでも重要な働きをしているのは、「霞の間」という措辞である。海に夕日が沈んでゆくのを、ただ見ているだけでは、これほどの詩情は感じられまい。霞の|あいだ《ヽヽヽ》から見渡してこそ、しら浪が入り日を洗うように見え、素晴らしいイメージをつくりあげているのである。  ついでに、もうひとつ。おなじ『新古今』に見られ、『百人一首』にも採《と》られている左京大夫顕輔《さきようのだいぶあきすけ》の歌。   秋風にたなびく雲の絶《た》えまより     もれいづる月の影のさやけさ  この歌の主眼も、月の光が「雲の|絶えま《ヽヽヽ》」からさしているところにある。このように日本人は月を「雲間《くもま》」に見、夕日を「波間《なみま》」にながめ、寺を「木間《このま》」に望むことによって、詩情を感じとるのだ。  利休が茶室へ通じる露地の神髄としたのも、連歌師|宗碩《そうせき》が詠《よ》んだ次のような情景だったと伝えられている。   夕月夜《ゆふづくよ》海すこしある木《こ》の間《ま》かな  露地を歩いていくと、ほのかな夕月の光のもと、木の間がくれに海が、かすかに見える、というイメージである。ここでも、「あいだ」が強調されている。  さて、そこで、「人間」という日本語であるが、私にはこの言葉が、日本文化の特性を象徴しているように思えてならない。なぜなら、日本人は何よりも「あいだ」を大切にし、「ひと」のことさえ「人|間《ヽ》」といって、わざわざ「あいだ」をつけて表現しているからである。  むろん、この言葉は中国から輸入された語であるが、中国語で「人間《レンチアン》(じんかん)」といえば「人の世」「世の中」の意味であって、「ひと」を指す言葉ではない。ところが、この言葉が日本に入ってくると、それがいつの間《ま》にか「ひと」そのものをあらわすことになる。つまり、日本では「ひと」と「人の世」とが、同義のように解されてしまうのだ。  ということは、日本人は「ひと」を考えるとき、よく言われるように、いつも他の人との「あいだ」を重視し、共同体と個人とを一体化せずにはいられない、そのような性格の持ち主であることを語っていまいか。  そういえば、日本語で「人の世」のことも「世|間《ヽ》」という。ともだちのことを「仲|間《ヽ》」と称する。そして、こうした大切な「間」を考えない人間を、「間《ヽ》抜け」とののしる。日本では、「間」の感覚なしに生きていけないのだ。  じっさい、日本語には何と「間《ま》」を用いた表現が多いことか。「間に合う・合わない」に始まり、「間が悪い」「間をもたす」「間を置く」から「間違い」に至るまで。  では、そのような「間」の感覚とはどのようなものなのだろう。前にも述べたが、哲学者カントは時間・空間の意識を、人間の先天的な直観形式とした。つまり、人間の認識はこの二つの直観の上に成り立っている、というのである。  しかし、そうした直観形式は、果たして普遍的なものなのであろうか。時代や民族によってニュアンスを異にするのではあるまいか。だからこそ、それぞれの民族がつくり出す音楽や絵画が違った性格を持つのではないか。  日本人が無意識に身につけている「間」は、この意味で日本特有の時・空形式といえる。なぜなら、「間」とは、たんに空間だけではなく、時間の感覚でもあるからだ。たとえば、「居間」といえば、住まいの中で自分がふだん居る空間であり、「間遠《まどお》」となると、時間的な「あいだが長い」の意となる。  だが、その「間」がどれくらいなのかは、なかなか説明できない。たとえば、私たちが、ふだん何気なく使っている「間もなく」といった表現も、その「間」とは何分ぐらいか、ときかれれば日本人自身、はっきりと指定することはできない。げんに、私は日本語を勉強している中国人に、そうきかれて返事に窮したことがある。「間もなく」というのだから、すぐに、即座に、という意味かというと、必ずしもそうではない。けれど、その「間」の長さは、容易に指示できないのである。  ちなみに、中国語に訳せば「馬上《マーシヤン》」、つまり、馬に乗り込むくらいのあいだ、つまり、「ただちに」となる。  一九七八年の秋、パリで「間」を主題とした日本の文化展が開かれた。私はぜひそれを見たかったのだが、行く機会がなかった。だから、その展覧会がフランス人に、どのような反響を呼んだのかわからない。が、日本文化にくわしいフランスの学者オギュスタン・ベルクは、その企画を「賞賛に値する」としながらも、これによって、どの程度ヨーロッパ人が日本文化を理解できたか、と首をかしげ、「見学者にわかった点があったとしたら、それは、少数の専門家を除けば、日本人の時間・空間は西欧的精神にとって永遠に踏み込みえぬ秘境だという感覚だった」と、つぎのように述べている。 [#ここから1字下げ] ——入場者は、「間の感覚」を理解不能なものとして受けとるべく、つまり、すでにありあまるほど具《そな》えられた日本的神秘、逆説に新たな一ページを付け加えるべく招待されたわけだが、展覧会の日本人主催者にとってもまた、この感覚を明瞭《めいりよう》に定義することはかなり骨の折れる仕事だったに違いない。(『空間の日本文化』宮原信訳、筑摩書房) [#ここで字下げ終わり]  こうして、彼は「間」というものを、日本特有の空間感覚とし、日本文化の核として分析してみせるのだが、それは、じつに適切なテーマというべきであろう。なぜなら、日本人の思考様式や感性を、本質的に規定しているのが、ほかならぬ「間」の意識のように、私にも思えるからである。  前記の著作には、ふだん日本人である私たちにもあまり気づかないでいる「間」の性格が、さまざまな角度から解釈されており、教えられるところが多々ある。  たとえば、寺院のたたずまいについて、彼は、日本とヨーロッパとでは正反対であり、ヨーロッパのキリスト教寺院が町のなかに屹立《きつりつ》し、どこからでも見えるように建てられているのに対し、日本の神社・仏閣は例外なく木々の茂みに隠され、外部からの視線を遮断《しやだん》している、と指摘している。  たしかにそうだ。私が冒頭に記した蕪村の句も、期せずして、そのような日本の寺院の性格を見事に表現しているではないか。  オギュスタン・ベルクはこのような彼我《ひが》の性格の相違を「西欧での垂直定位、日本での水平定位」として対極に置き、「垂直性は視線を集中させ、水平性は視線を拡散させる」と述べている。  では、「水平性」は、どのような空間構成をとるのか。彼によれば、「垂直性」が隔絶であるのに対し、「水平性」は、ある種の中間区域、緩衝地帯を設け、「内と外という二つの空間の違いを和らげる」機能を果たしている、という。  それが人間的な関係に投射されると、日本で結婚に際して重要な役割を演ずる「仲人《なこうど》」の出現になる。 「仲人は」と、彼は言う。「単に結婚の話(縁談《ヽヽ》)を成立へと導くだけでなく、その後も助力した結びつきのいわば保証人であり続ける。その点で仲人は、単なる仲立ち人とは本質的に異なる」。そして、フランスのこの学者は、A・Bという「二つの項の間の関係を第三の項で仲立ちし、具象化しようとするこうした傾向」に、「移行、準備、あらゆる種類のウォーミングアップに対する日本人の極端なまでの心配り」を見るのである。「根回《ねまわ》し」などというのは、その最たるものであろう。 「間」とは、いうまでもなく、「あいだ」のことである。「あひだ」の「あひ」とは、「合ひ」、「逢《あ》ひ」であり(岩波版『古語辞典』)、また「相《あ》ひ」の意もふくまれるようだ。そして、「あひだ」の「だ」は、「コナタ・アナタのタ(手)、手で方角を指標すること」、したがって、「アヒダは二つのものに挟《はさ》まれた中間を、ここと指す言葉」(藤堂明保監修・清水秀晃著『日本語語源辞典』)に由来するらしい。  いずれにせよ、「間」は、A・Bふたつのもの、あるいは、ひと、または地点、時点の中間を意味する。それは明らかだが、問題はその「あいだ」をどのように解し、扱うか、ということだ。なぜなら、そうした「あいだ」は、ふたつのものを結びつける役割を演じると同時に、両者を引き離す機能も持っているからである。つまり、要はその「間柄《あいだがら》」なのである。  たとえば、海を「絶海」といって、陸と陸とを引き離すものと見るか、それとも、船によって結びつける役割をそれに与えるかによって、海の性質がまったく反対の意味を持ってくるように。そして、日本人は「あいだ」を「隔絶」と見ず、むしろ「結合」として用いようとしたのである。それが「間」の感覚を育てたと私は思う。  むろん、海が荒れるなら、それは「隔絶」となるだろう。そこで日本人はつねに「波風が立たぬよう」願うのである。|渡る《ヽヽ》世間も「海」である。だから、日本人は何より「世間をお騒がせする」ことを恐れ、それを「申し訳ない」と思うのではなかろうか。  とすれば、日本人の「間」の感覚は、こうした海のイメージに由来するともいえそうである。  そこで最後に、私の好きな歌二首。   春といへば霞みにけりな昨日まで[#地付き]俊恵法師《しゆんゑほふし》       波間《なみま》に見えし淡路島山《あはぢしまやま》   ほの/″\と明石《あかし》の浦の朝霧に[#地付き]柿本人麿《かきのもとのひとまろ》       島がくれ行く船をしぞ思ふ [#改ページ] [#小見出し]   手  心  人間にはいろいろな定義があるが、ホモ・ファーベル(道具を使う動物)というのが、なんといっても人間の特質を見事に言いあらわしているように思う。なぜなら、道具なしに人間は、どんな文明をもつくり出すことができなかったはずだからである。道具の発明によって、文明は始まったのだ。  では、その道具は、どのようにして作り出されたのだろう。いうまでもない、手によって、である。だから、人類文明は文字どおり、「|手づくり《ヽヽヽヽ》」といっていい。そう思うと、私はいまさらのように、人間の手の神秘に打たれる。人間社会のすべてが、器用に動く五本の指を持った手によって形成され、組織され、管理されているのであるから。人間は神が与えてくれた手に、どれほど感謝してもしきれないのではなかろうか。  そこで石川|啄木《たくぼく》は、しみじみと、こう歌ったのだ。   はたらけど   はたらけど猶《なほ》わが生活《くらし》楽にならざり   ぢつと手を見る  私も若い頃《ころ》、生活苦から、思わず自分の手を見つめたことがある。なにせ、敗戦後の食べ物もろくに手《ヽ》に入らなかったときであったから、この啄木の歌は痛切に響いたものだ。当時、父親は失職しており、わが家では、私だけが働き手《ヽ》だったのである。  日本人は手《ヽ》先がたいへん器用な国民といわれている。たしかに、日本の美術工芸品などを見れば、じつに巧みに指を使った跡が、はっきりとわかる。それだけに、日本人の手に寄せる思いは、ひとしおだったのであろう。  その証《あか》しは、美術品のみならず、日本語そのものにもさまざまな形で刻印されている。げんに、ここまで書いてきた私の文章の中にも、「手」と組み合わされた単語がかなりあるではないか。そう。日本人は、やたらに手にこだわるのである。  かつて木下恵介監督に、主演女優のいちばんの条件は何か、と聞いたことがある。すると、彼は即座にこう答えて、私をびっくりさせた。 「手ですよ」 「え? 手?」 「そう、手です。手というのは、ときには顔以上に重要な演技をしますからね。ですから、手の形の悪い人は、ほかの条件がどれほど揃《そろ》っていても使えないんです」  なるほど、と私は思った。それ以来、私は映画を見るたびに、手が映るカットばかり注意する癖がついてしまった。そして、たしかに、手《ヽ》が口ほどに物を言うのを発見したのだった。  そういえば、映画ばかりではなく、小説でも、手が大切な働きをしているのに気がつく。たとえば、芥川龍之介《あくたがわりゆうのすけ》の『手巾《ハンケチ》』である。ここに登場する「四十|恰好《かつこう》の」婦人の心の中は、彼女がテーブルの下で重ねていた手が激しく震えていた、という事実によって、あざやかに描き出されている。この小説は、『手巾《ハンケチ》』というより、『手』と題したほうがよかったのではないか、と思われるほどだ。  火鉢《ひばち》といえば、いまはもうすっかり過去のものになってしまったが、明治・大正文学には、必ずといっていいくらい、火鉢が人間ドラマの仲立ちの役割を担っていた。漱石《そうせき》の小説は火鉢なしでは考えられない、とさえいえる。火鉢の上にかざされる女の手が、言葉よりもはるかに雄弁に、彼女の心の動きを伝えてくれるからである。『それから』の三千代《みちよ》の手、『明暗』のお延《のぶ》の指先……。こうした描写は日本の小説の独壇場《どくだんじよう》であろう。  テレビのニュースを見ていたら、アナウンサーが「|あとであとで《ヽヽヽヽヽヽ》にまわる」と言った。一瞬、何のことだかわからなかったが、すぐに、「後手後手《ごてごて》にまわる」の「後手」を「あとで」と読んだんだな、と気がついた。近頃は日本語がだいぶ混乱しているらしい。それは笑ってすますとして、これも「手」である。  この場合の「手」は、いうまでもなく「方策」を表し、対応がつぎつぎに遅れていくことだ。手はこのように手《ヽ》段、方策といった意味にも使われるのである。  私はその「|あとで《ヽヽヽ》」に興をひかれて、日本語に「手」が、どんな働きをしているのか、あらためて、あれこれ考えてみた。ある、ある。次から次へと、いろいろな表現が思い浮かんだ。  手《ヽ》がこむ、その手《ヽ》は食わない、手《ヽ》のうちを見せる、手《ヽ》ごたえ、手《ヽ》を替《か》え品を替え、手《ヽ》を染める、手《ヽ》がかかる、手《ヽ》なずける、手《ヽ》柄《ヽ》をたてる、手《ヽ》玉に取る、次の一|手《ヽ》、人|手《ヽ》が足りない、手《ヽ》づるを求める、手《ヽ》塩にかける、手《ヽ》向かう、手《ヽ》取り足取り、手《ヽ》を切る、手《ヽ》を引く、手《ヽ》を広げる、手《ヽ》をこまねく、手《ヽ》を焼く、手《ヽ》が早い、手《ヽ》もなく、手《ヽ》につかない、手《ヽ》を尽す、手《ヽ》をわずらわせる、お手《ヽ》を拝借、お手《ヽ》並み拝見、手《ヽ》放しで喜ぶ、お手《ヽ》あげだ、追《おつ》手《ヽ》、苦《にが》手《ヽ》、やり手《ヽ》、奥の手《ヽ》、手《ヽ》づまり、手《ヽ》抜き、手《ヽ》立て、手《ヽ》前、手《ヽ》近、手《ヽ》数、手《ヽ》代《だい》、手《ヽ》みじか、手《ヽ》本、手水《ちようず》、手《ヽ》品、話|手《ヽ》、行く手《ヽ》、手《ヽ》練|手《ヽ》管、あの手《ヽ》この手《ヽ》、手《ヽ》垢《あか》がつく、手《ヽ》当たりしだい、手《ヽ》厚い、足|手《ヽ》まとい、手《ヽ》下、手《ヽ》形、手《ヽ》入れ、手《ヽ》加減、手《ヽ》配、手《ヽ》際《ぎわ》、手《ヽ》筋、手《ヽ》勢《ぜい》、手《ヽ》当て、手《ヽ》口《ぐち》、手《ヽ》みやげ、手《ヽ》まわり品、手《ヽ》荒、手《ヽ》頃《ごろ》、手《ヽ》軽、手《ヽ》討ち、お手《ヽ》つき、手《ヽ》狭《ぜま》、手《ヽ》ちがい、手《ヽ》間、上手《じようず》・下手《へた》、手《ヽ》紙……。  ちなみに「手紙」といえば、日本では書簡の意味だが、中国語になると、トイレット・ペーパーをさす。だから、中国で、うっかり「手紙でお返事します」など筆談したら、相|手《ヽ》はびっくりするだろう。  これほど言葉のなかに「手」をおびただしく使う民族は、ほかにない、といってもいいのではなかろうか。とすると、日本人は「手」を、なにより重視する性格を持っている、ともいえそうである。なにしろ「猫《ねこ》の手《ヽ》も借りたい」などという表現すらあるほどなのだから。  考えれば考えるほど、言葉というものは不思議に思えてならない。人間の手を、この国の、だれが、いつ、どんな動機で「て」と名づけたのか。だれともなく、自然にそのような発音で手をさすことになったのであろうが。  もっとも、日本語の「手」は、最初は「タ」であったらしい。「頼り」「便り」のタは、「手寄《たより》」が原義とされており(岩波版『古語辞典』)、かなた(彼方)、こなた(此方)の「タ」も、「手」に由来する。  こうした言葉からも察せられるように、日本人は、人間をはじめ、世界そのものまで、「手」を中心に発想してきたように思われる。日本人はエコノミック・アニマルなどといわれているが、それより、まぎれもなくホモ・ファーベルなのである。 「手」という文字は、むろん中国から輸入したものだが、中国人は日本人ほど「手」を多用していない。  ところが、日本人は、肉体の一部である手を、「相|手《ヽ》」というように、人間そのものにまで用い、「手《ヽ》を切る」というぐあいに人間の関係にまでひろげ、「この手《ヽ》の品物はありませんか」などと種類にも用い、「その手《ヽ》には乗らない」と策略にも応用した。  また、「山の手《ヽ》」というふうに方向や地域を示すのにも使い、「手《ヽ》つだう」のように助ける行為も、手で代表させている。「勝|手《ヽ》」という語に至っては「都合」、「わがまま」、「生計」、「具合」から「台所」まで、それこそ�勝手放題�に応用されているではないか。 「深|手《ヽ》を負う」というときの手は「傷」のことであり、「酒|手《ヽ》」といえば、一パイやる費用、代金となる。  新井白石が著した日本語の�語源辞典�ともいうべき『東雅《とうが》』によると、「平《たひら》」というのも、「手によりて云《い》ひし詞也《ことばなり》。今も掌をテノヒラなどいふなり」とある。そして、「田」も「其平《そのたひら》かなる事手の如《ごと》くなれば、かく云ひしなるべし」と説明している。  とすれば、日本人にとって、最も大切な「田」も、手のイメージからきていることになろう。日本人はまさしく、�手の民族�なのだ。  こうなると「民」という言葉さえ、「手」に関係づけたくなってくる。白石は「農民をタミといひし事、其始《そのはじめ》を知らず」と投げだしてしまっているが、藤堂明保監修・清水秀晃著『日本語語源辞典』には、「田身か」とあり、井口丑二『日本語原』には、「田見」ではないか、としている。  ついでにいえば、「楽し」は「手伸《たの》し」、「保つ」は「手持《たもつ》」に由来するようだ。  たしかに日本人は、手にすべてを託した。自分の心さえ。「手心」という言葉が、何よりそれを正直に語っている。「手心」とは、「手もとに残っている感じ。身についたわざ。転じて、事情に応じて物事を程よくあんばいすること。また、寛大な取扱いをすること」と『広辞苑』にある。そこから、「手心を加える」などという表現が生まれたのである。しかし、「手もとに残っている感じ」とは何なのだろう。  かつて、マリリン・モンローが来日した折り、当時、新聞記者だった私は、帝国ホテルでの記者会見に出たことがある。たまたま私が最前列にいたので、別れぎわに握手をした。その手のぬくもりがしばらく残っていたが、おそらく、そんな感触が心に投影した状態をさすのであろう。だから、手に受けた心が、寛大な処置をとらせることになるのではあるまいか。  しかし、握手などという習慣のなかった昔の日本人は、じっさいに「手を取り合わ」なくても、手に心の影を感じとったのである。  私はそれを芭蕉《ばしよう》のつぎの一句に見る。   手にとらば消《きえ》んなみだぞあつき秋の霜  貞享《じようきよう》元年(一六八四年)、芭蕉四十一歳のときの作である。  この年、彼は「甲子吟行《かつしぎんこう》」の旅に出、九月はじめ、郷里の伊賀に立ち寄って、兄が守袋《まもりぶくろ》から取り出した亡《な》き母の形見の白髪に涙を落とし、この句を詠《よ》んだ。秋の霜を手に取って掌《てのひら》にのせたなら、わが涙で霜は消えてしまうであろう、というのである。  冷たい霜と、熱い涙。その手の上の感触。むろん、秋の霜とは母の形見となった白髪を意味し、消え入るような悲しい心を、芭蕉は「手」に託したのだ。母の髪を掌《てのひら》にのせ、それに、じっと見入る芭蕉の心は、手に凝集している。これこそ、まさしく「手心」ではないか。 「掌《たなごころ》をさすように」という表現もある。「明らかなこと」を強調する比喩《ひゆ》として使われる。その「たなごころ」の「ナ」は「ノ」と同義で、つまり、「手の心」の意味である。私はここにも、日本人の手と心の深い結びつきを見る。  手。掌。そして指。人間の身体のなかで最も神経の集まる手に、日本人は人間の深い心を読むのである。  つぎも啄木の歌だ。   よごれたる手を見る——   ちやうど   この頃《ごろ》の自分の心に対《むか》ふがごとし。 [#改ページ] [#小見出し]   国  あなたの「クニ」はどちらですか?  ときかれたら、ほとんどの日本人は「日本」とは答えまい。「岩手県です」とか、「岡山県です」、あるいは「松本です」、「金沢です」というように県、もしくは町の名をあげるだろう。むろん、外地で異国人に問われた場合は別であるが。  このように、「クニ」という日本語は、それが日本国内で使われるときには、自分の出身地、故郷、を意味している。つまり、日本という国のなかに、さまざまな「クニ」が存在しているのである。  とすれば、「クニ」という言葉には、日本の国の成り立ちの歴史が、そのまま塗りこめられている、といってもいいのではあるまいか。  その昔、日本にはたくさんの「クニ」があり、それがやがてひとつの「国」に統合された、という記憶である。そして、こうした「クニ」意識は、幕藩体制が崩れ、「大政が奉還」された明治維新まで、いや、いまもって、ずっと続いているのである。大名が自分の封地に入ることは「お国入《くにいり》」といわれ、領地を他に移されることは「お国替《くにがえ》」と呼ばれた。その名残が、現代に至るまで、人びとの心に消えやらずにいるのだ。  したがって、日本人の心のなかには、「国」のなかに「クニ」があり、まるで�二重国籍�のようにだぶっている、ともいえる。  私は日本人のこうした「クニ」意識が、今後、世界のなかで、どのように作用するか、その動向によって日本の運命が大きく左右されるのではないか、とさえ思っている。かつてのように、それが�二重の鎧《よろい》�になって、排外的な超国家主義(ウルトラ・ナショナリズム)を再現する方向へ走っていくのか、それとも「クニ」の二重意識が、アジア人として、さらに地球人として、というふうに三重、四重となって、ボーダーレスになりつつあるといわれるこれからの世界に、巧みに適応していくのか、という問題である。  それを考えるには、「クニ」という日本語を改めて点検してみる必要があろう。いったい、「クニ」という和語は、そもそも、どんな意味を持っていたのだろう。  前にも引いた新井白石の『東雅』には、「国」について、かなりくわしく考察されている。その冒頭に「義不[#レ]詳」(語義がよくわからない)とある。白石がこの著述を書きあげたのは享保《きようほう》二年、六十一歳のときというから、西暦でいえば、一七一七年にあたる。  そのころ、ヨーロッパでは、イギリス、フランス、オランダが三国同盟を結んでおり、オーストリアはトルコと戦い、スペインはサルジニア島、ついでシチリア島を占領している。各国入り乱れて、自|国《ヽ》の勢力拡大に血眼《ちまなこ》になっていたのだ。  そうした国々にくらべれば、日本は、まだまだ、のんびりしたもので、享保の改革や、長崎での貿易制限などに気を配らなければならなかったとはいうものの、他国との争いとは無縁だった。白石は政治の担当者として、鹿児島に上陸したイエズス会の宣教師シドチを江戸に連行させて取り調べをしており、その大略をまとめた『西洋紀聞』の筆者として、当時切っての�国際通�だったようだが、そのような彼にして、なお、「国」の語義を「不詳」としているのである。  もっとも、白石がよくわからないというのは、「クニ」という日本語の語源《ヽヽ》についてであり、だからといって、彼が「国」という概念を明確に持っていなかった、ということにはならないかもしれない。  しかし、名は体をあらわす。「クニ」の意味が詳《つまび》らかでないとすれば、やはり「国家」というような観念は、彼においても、それほど明確なイメージを結んでいなかった、と思わざるをえない。  が、しかし、ともかく、白石の解釈をきこう。  彼によれば、「国」とは古語で「クム」とも、「クモ」とも、また「ク」ともいわれていた、という。そして上代においては、「天《アメ》」に対して「クニ」といっているところからすると、それは「土《ツチ》」を意味していたらしい、と推察している。また、「分界」のことを「クマリ」といっている点から見れば、「クニ」はその「クマリ」から転じたものではないか、ともいい、こう述べている。 [#ここから1字下げ] ——さらば天《アメ》といひ国《クニ》といひしも、一嶋の内にして国相分れしも、皆|是《これ》分界の義あるに似たり。…… [#ここで字下げ終わり] 「国」という日本語については、このほかにもいろいろな解釈がある。たとえば、「ク」とは、そもそも「包含する=ふくむ・内容とする・包み入れる・くるむ・かがまる・丸く屈する・くぐもる」の意であって、「組ム」という語もそれに由来し、「クニ」はその「組ム」から派生したとみる説である(藤堂明保監修・清水秀晃著『日本語語源辞典』)。それによると、「クニ」とは「組和《くに》」であり、「組織和合の意であるから、豪族が寄り合って組んで国を造ったという説を裏打ちするもの」という。つまり、「クニ」の「ニ」は「和合」を示すというのである。こうしたことから、この言葉は「日本の国家形成と深い関係を持つ」と解説されている。  同じように、「人々相|与《く》みて国はなすものなり」とし、「組土《クミニ》か」と、推測する説もある。(賀茂百樹『日本語源』)  では「国家」という言葉はどうなのか。「国家」という語は古く『十七条憲法』に見えており、また『平家物語』や、『太平記』にも記されているが、これは、いうまでもなく漢語で、すでに『易経』に用いられているという。しかし、この漢語が「クニ」にかわって、さかんに使われるようになるのは、やはり明治以降のようである。おそらく明治になって「クニ」の意識が強まり、「義不詳」だった「クニ」が、「国家」という重々しい漢語に代わるようになったのではなかろうか。  とすれば、「国家」という言葉も、日本が近代国家として生まれかわったという自覚を、そのまま表現している、といってもよかろう。  そのような「近代国家」とは何なのか。明治の日本人は、その概念を夢中で学ぼうとした。明治四十二年に同文館から出た井上哲次郎、朝永《ともなが》三十郎らによって執筆された『哲学大辞書』には、「国家」が英語の State,ドイツ語の Staat,フランス語の Etat の訳語として、くわしく説明されている。「国家の要素」「国家の本質」「国家の形式」「国家の生滅」というふうに、古代ギリシア哲学の諸説から、近代ヨーロッパの学説に至るまで、丹念に紹介して余すところない。よくまあ、ここまで詳細に解説したものだと、思わず感嘆させられるほどだ。  だが、ヨーロッパにおいても「国家」という概念を明確にあらわす言葉が定着するまでには、長い歴史があった。つまり、「国」、あるいは「国家」という概念は、深くそれぞれの民族の歴史にかかわっており、その変遷《へんせん》をたどることは容易でないという。  ドイツの歴史家アーノルト・マイヤーによると、イタリア語、スペイン語、フランス語、英語のどの場合でも「基本語義からはじめて最後に国家という最高次元の語義に到《いた》るまでの発展は、三〇〇年ないし四〇〇年かかっている」そうである(「Staat〔国家〕という言葉の歴史に寄せて」=F・ハルトゥング、R・フィーアハウスほか著『伝統社会と近代国家』成瀬治編訳所収、岩波書店)。そして、それらはいずれも、「状態」、「境遇」、「身分」、「地位」、「名声」、「偉大さ」、「威厳」、「宮廷」、「統治」、「支配」といった意味から、最後に「国家」の意味に到達した、とある。  しかし、考えてみると、それはむりもない話で、「国家」というのは国民一人一人と密接にかかわっているのに、目で見ることも、手でさわることもできない抽象的存在だからである。国家はしばしば人格のようなものとして表象されるが、けっして具体的なイメージを伴《ともな》っているわけではない。  だから、行政の責任を問う、という形で「国」を告訴するようなケースがおきると、何とも妙な気持ちになる。被告である「国」の姿が見えないからだ。それは、まるでカフカの小説『審判』、あるいは『城』のように、命令は下すが、けっして姿を見せない不気味な「強制力」としてしか感じられないのである。  そのような「国家」は、今後、どのような形に変質していくのだろう。科学技術の飛躍的な発展、情報化の急速な進展によって、いやおうなしに、その性格を変えていかざるを得まい。げんに、それぞれの国と、かたく結ばれていたはずの経済活動は、「多国籍企業」によって、あっさり国境を越えてしまった。そして、電波による情報が�鎖国�を無意味にし、�鉄のカーテン�などという言葉を、とっくに死語に追いやった。  二十一世紀を寸前にして、いまや「近代国家」は終わりつつある、と見ていいだろう。 「国家」という言葉の意味は、ここでまた、新たな定義を与えられねばならない時期を迎えたのである。  その先端を切ろうとしているのが、当の「近代国家」を生みだしたヨーロッパである。一九九二年にヨーロッパは�合衆国�のように統合され、たがいの国境を消し去ろうとしている。むろん、イギリス、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア……といった欧州諸|国《ヽ》がなくなるわけではない。が、すくなくともヨーロッパは、みずからがつくりだした「近代国家」という従来の国の意識を、大きく変えていかねばならなくなるはずだ。  地球規模でひろがり始めた環境汚染、人口爆発による南北格差の増大、世界各地に噴出する民族問題……こうした深刻な事態も、人びとに「国」の意識の変革を激しく迫っている。いまや、自分の国の利益だけを考えて行動する、というようなことは許されなくなってきているのである。じっさい、現在、先進諸国につきつけられているのは、「近代国家」なる観念が犯してきたさまざまなあやまちのツケなのであり、その清算なのだ。  そのあやまちとは、民族や歴史を無視し、力にものをいわせて、「近代諸国家」が自分たちだけの都合で勝手に引いた国境線であり、相手に押しつけた独善的な「国家」観といってもいい。けれど、その清算には、まだまだ多くの歳月を必要とするだろう。すくなくとも、この世紀末の十年は、その処理に地球全体が苦しむことになるにちがいない。  しからば、日本はどう対処すべきか。遅ればせに「近代国家」の仲間入りをした日本も、とうぜん、その責任を分担せねばなるまい。そのためにまず必要なことは、ここでもういちど、「クニ」という言葉の意味を考え直すことではないか、と私は思う。ヨーロッパ諸国やアジア各国、いやほとんどの国にくらべても、日本は「クニ」の意識を自然のように抱き得る|幸福な《ヽヽヽ》条件に恵まれてきた。まわりを海にかこまれ、他国と直接に境を接することがなかったからだ。白石が「クニ」という日本語を「不詳」といっていることは、それだけ、日本人が「国」について深刻に考えないですんだという幸福な境遇を語っている。  だが、そのような時代は終わり、これまでのような条件は、情報化、国際化によってなくなった。「不詳」な「クニ」という日本語に、新しくどのような語義を与えるか——それが、これからの日本の進路をきめる最大の課題ではなかろうか。 [#改ページ] [#小見出し]   た だ の 鼠  デパートの地階は、たいてい食料品売場になっている。私はめったに足を踏み入れたことがないが、たまに通りかかると、あるわ、あるわ、信じられないほどさまざまな食品が、所狭しと並べられている。それを見るたびに、私は食料の不足に悩むソ連や東欧、その他多くの人たちのことを思い、なんともやるせない気になる。  かなり前のことだが、こんな話を聞いたことがある。日本にやってきた(旧)ソ連のある使節団のひとりをデパートに案内したところ、彼はいろいろなものを買い込んでホテルに戻り、あらためてこう言ったというのである。 「私は日本が豊かな国だと思っていたが、実情を見て、あまりに貧しいのに驚いた」  案内した日本人はびっくりして、そのわけを訊《たず》ねると、彼はこう答えたのだ。 「日本のデパートには、あんなにたくさんの品物が並んでいる。モスクワだったら、たちまち行列ができて、あっという間に売り切れてしまう。売り切れないところを見ると、日本人の多くは貧しくて買う金がないにちがいない。富の偏在は恐ろしい」  私はデパートの売場を通りぬけながら、いつも、このソ連人の言葉を思い出す。そういわれても、売場は年じゅう、庶民でごった返しているからである。そして、人いきれ、食物の匂《にお》い、客に呼びかける店員の大声、そんな雰囲気《ふんいき》のなかに身を置いていると、こんどは幼い頃《ころ》の記憶がまざまざと甦《よみがえ》ってくる。  私の育った東京・中野の家の近くには、みすぼらしい市場《いちば》があった。私はよく、そこへ使いに行かされたのだが、その市場にも、掛け声がとびかっていた。それが子供心に、たいへんおもしろかった。意味はよくわからなかったが、まるで漫才師か講釈師が聴衆を前にしているように、立て板に水といった調子で、男たちが大声を張り上げているのである。 「さあ、買った、買った! 飛び切り安くしとくよ。こいつを買ってくれりゃ、こっちは�ただのたん助《すけ》、日焼けの茄子《なすび》�だ」  私は家へ帰って母親に「ただのたん助って、どういう意味?」と聞いた。母親は笑って「それはね、ただでやる、ということだよ」と教えてくれた。なるほど「ただのたん助」か、と私はひどくこの言葉が気に入った。  いまのデパートの売場で、私がいまひとつ物足りないのは、「さあ、いらっしゃい、いらっしゃい。お買い得ですよ」といった言葉は聞くが、昔のようにその掛け声に、リズムも、また、口上になんの趣向もなくなってしまったことである。  掛け声というなら、むかし夜店でこんな呼びかけを聞いたこともある。 「張《は》っちゃならない女房の頭《あたま》、張らにゃならない提灯屋《ちようちんや》!」  私はおもわず笑った。往時、こうした類《たぐ》いの表現は、あちこちで聞かれたものだ。最近、懐《なつ》かしい物売りの声が聞かれなくなったことを淋《さび》しがる人が多いが、それもさることながら、私には、このような面白い掛け声を、とんと耳にしなくなったことのほうが、ずっと味気ない気がする。  ところで、「ただのたん助」であるが、考えてみると、「ただ」という日本語はたいへん複雑なニュアンスをもっている。それだけに、日本人は「ただ」を、さまざまに使い分け、また、この言葉をたいへん好んでいるようだ。最近では筒井|康隆《やすたか》の『文学部唯野教授』なる小説がベストセラーになった。その一因も、おそらく「唯野《ただの》」という「唯《ただ》」にあったのではあるまいか。 「唯野」で思い出したが、私の子供のころ、朝日新聞に麻生豊《あそうゆたか》の「只野凡児《ただのぼんじ》」という漫画が、数年にわたって連載されていた。大学は出たけれど職もない若者を主人公にした作品で、不景気風が吹く当時の世相を、いささかのペーソスとユーモアに包んで諷《ふう》した生活風景が、おおいにうけたものだ。 「ただの」とは、いうまでもなく、平々凡々な、という意味をこめての命名である。そういえば、「平凡」という名を冠した大手の出版社があり、またそう名付けた雑誌も、最近まで多くの部数を誇っていた。それを見ても、日本人が「平々凡々」、すなわち「ただの」をいかに好んでいるか察することができよう。  しかし『文学部唯野教授』は、読んでみると、どうして、平凡な大学教授ではない。言い換えるなら、彼は「|ただの《ヽヽヽ》鼠《ねずみ》」でないところに人気の秘密がある、といってもいいくらいだ。むろん、「比較文学論」を講じながら、俗臭芬々《ぞくしゆうふんぷん》たるところが、「唯野教授」の「ただの」たるゆえんなのであろうが、こうしてみると、日本語の「ただ」には、「俗物的な」というニュアンスも含まれているようである。  では、日本語の「ただ」とは、そもそも、どういう意味なのか。  興に引かれて、あれこれの辞書を繰ってみたら、ふだん私たちが何気なく使っているこの言葉が、いかに微妙な内容を持っているか、あらためて思い知らされた。  外から家へ帰ってくると、私たちは必ず「ただいま」と言う。それは、いうまでもなく、「たったいま戻りました」を略した挨拶《あいさつ》語である。その「たった」は「ただ」の転であるという。  では、「たった」は、どういうことなのか。「たったこれだけ?」などという表現からもわかるように、「わずか」、すなわち only の意味である。  しかし、「ただ」は、そのほかにも「無料」を意味し、だから「安保|ただ《ヽヽ》乗り」などというアメリカの非難が新聞の見出しにもなる。また、「ただ」には「特にいうほどの事もないこと」、「ふつう」、「並《なみ》」、「平凡」などの意味があり、それには「只」の漢字が当てられている。それだけではない。「唯野教授」の「唯」は、「わずか」、「単に」、「たった」、「もっぱら」、「ひたすら」の意とされ、さらに「徒」を「ただ」と読ませる場合には、「意味もなく」、「無駄《むだ》に」という意味になる(講談社版『日本語大辞典』)という。  こうなると、「正しい」という形容詞も気になってくる。おそらく、これも「ただ」に由来するのではないかと思って、べつの辞典を繰ってみたら、「タダ(直・唯)と同根。対象に向って直線的で曲折が無い意。従って、規範や道義に対して、まっすぐで、よこしまが無いと感じられるというのが古い意味。転じて、客観的に道理に合う、きまりに合って整然としている意」(岩波版『古語辞典』)とあった。  やはり「正しい」は「ただ」からきているのだ。このほかにも「ただ(但)し」という副詞がある。これも「ただ」から生まれた言葉だそうで、昔は「たった」、「わずかに」、あるいは「ひたすら」、「専一に」を意味し、また接続詞で「もっとも」、「しかしながら」という現代の使い方に及んでいる(同前)。  そのほかにも諸説あり、「ただ」の「た」は、「円《まる》く平なるを意味」し、そこから「ただしい」という言葉ができた、と説く人もいる(井口丑二『日本語原』)。それによると「ただよふ」とは、「正シキ方針ニ迷フ」ということで、ヨフとは弱ルの約音だそうだ。  こうした語源が、どこまで正確なのか私には分からぬが、いずれにしても、「ただ」という日本語は、それこそ「|ただ《ヽヽ》ごと」ではないのである。「ただ」という、|ただ《ヽヽ》それだけの言葉から、日本人の価値観や情感を分析することさえできそうに思われてくるからだ。  たしかにそうなのである。「ただ」という言葉の持っている幽玄な感情を指摘して、「あな恐ろし」とまで賛嘆した古人がいるのだ。徹書記《てつしよき》、清巌和尚《せいがんおしよう》と呼ばれた室町時代の歌僧、正徹《しようてつ》である。彼がそれほどまでに感動したのは、|後京極摂政《ごきようごくせつしよう》 藤原良経《ふじわらのよしつね》のつぎの歌であった。   人住まぬ不破《ふは》の関屋《せきや》の板廂《いたびさし》     荒《あ》れにしのちはただ秋の風  この歌について正徹の弟子であった連歌師|心敬《しんけい》は、師の言葉を、こう述べている。 [#ここから1字下げ] ——このただの二字をば、昔より玄妙不可説の事に侍《はべ》るとかや。かの賢き和尚(正徹)も、「まことに置き難《がた》き事|也《なり》。かの御胸に、この二字のありける事よ。あな恐ろし」など仰《おほ》せ給ひし。(心敬『ささめごと』) [#ここで字下げ終わり]  つまり、この歌に用いられている「ただ」という措辞は、たった二文字であるが、昔から玄妙で、いわく言いがたい表現、とされてきた。師の正徹も「この言葉はなかなか歌に使いきれないものであり、作者の心の中に、よくもこの二文字があったことか、恐ろしいほどだ」と言われていた、というのである。  なぜ、この歌の「ただ」という措辞が、古来からそれほど、日本人の胸に深い感動を呼び起こしたのだろう。おそらく、この「ただ」には、「たんに秋風だけが」というだけではなく、「いたずらに、むなしく」といった無常感が込められているからであろう。ここでは「ただ」が、幽玄、|あはれ《ヽヽヽ》、無常、そして無情、日本人の美感のすべてを二文字で言い切っているのである。  とすれば、「ただ」という日本語は、いよいよ「ただごと」ではなくなってくる。あだやおろそかに扱えないということになろう。  心敬は、さらに、こう言っている。  ——さては見ると見ざると、迷へると悟れるとの境のみ也。(同前)  すなわち、物事の本質をはっきり見抜く人と、いいかげんに見過ごす人との違いが、この言葉ひとつからもうかがえる、というのだ。  とすれば、日本語は、まことに逆説的な性格を持っている、といわねばなるまい。なぜなら、「ただ」とは日常語として「取り立てるほどのことのないさま」、「普通」、あるいは「何もせず」(三省堂版『大辞林』)という意味に使われながら、しかも、その底に、仏教的な深い無常観を秘めているのであるから。  日本にはこんなことわざもある。 「十で神童、十五で才子、二十《はたち》過ぎれば只《ただ》の人」  じっさい、そういう子供たちは、いまでも私たちのまわりにたくさんいる。神童が、そのまま神《ヽ》人になったのではたまらないが、そこはよくしたもので、ほとんどの神童は、やがて「只野凡児」になっていくのである。だからこそ、社会は平和を保っているにちがいない。そして、ここに私は日本人の正直な価値観をみる。  日本人はけっして天才を歓迎しない。ずば抜けた才を持つ人は、たしかに貴重な存在ではあるが、彼らは往々にして常識を欠き、性格的にもかたよっており、協調性に乏しい。日本人はそうした人物を敬しはするが、けっして親しみは持たないのである。それよりも、凡人こそが好ましく、だからこそ、「只野凡児」は人気を博し、大学の教師でありながら、けっこう下世話に通じた俗人である「唯野教授」を笑いながら歓迎するのだ。 「あいつは、ただの鼠じゃねえ」などと言われる人間は、日本では、あやしげな、不気味な、好ましからざる人物とされるのである。 [#改ページ] [#小見出し]   だからどうなんだ!  日本語でいちばんむずかしいのは、ハとガの区別であろう。だれもがわかっているから、みな正確にこのふたつの助詞を使い分けている。しかし、では、どうちがうのか、と改めて問いただされると、どうにも説明に窮してしまう。  そのハとガの難問について、私はこれまでに何度も国語学者大野|晋《すすむ》氏に意見をたずね、そのつど、おおいに教えられるところ多かったのだが、しかし、疑問は依然として消えなかった。そのいきさつは前にも書いた(『日本語 表と裏』)。  そこで、以後、さらに二夜にわたって、この問題について大野氏の見解を拝聴し、私見も披瀝《ひれき》した。そして、そのとき、氏からきわめて示唆《しさ》に富む解答を与えられた。端的にいうなら、大野氏の分析は、こうである。  要するに、ハというのは何かを|説明する《ヽヽヽヽ》ための助詞であり、ガは何かを|叙述する《ヽヽヽヽ》ときに用いられる助詞だ、というのである。たとえば、「鳥は鳴く」という文は、鳥について|説明した《ヽヽヽヽ》ものであり、それを「鳥が鳴く」とすれば、鳥が鳴いている事実を|叙述した《ヽヽヽヽ》文になる、というのである。私はそれをきいて、思わずハッとした。  というのは、もしそうだとすると、日本人は無意識のうちに、「説明」と「叙述」を、頭の中で区別していることになるからだ。  では、「説明」と「叙述」とは、どうちがうのか。ある事実を叙述することは、考えようによれば、その事実を説明したもの、とも受けとれようし、また、あることを説明する文章は、それを叙述している、ともいえるではないか。げんにヨーロッパ語には、こうした区別はない。日本語には、「彼|は《ヽ》言った」という表現と、「彼|が《ヽ》言った」というふた通りの用法があるが、英語に訳せば、どちらも He said である。  しかし、「彼|は《ヽ》言った」と「彼|が《ヽ》言った」とでは、あきらかにニュアンスがちがう。どうちがうのか。  さきの大野氏によれば、「彼|は《ヽ》」といったときには、「彼」の行為について「説明」したことになり、「彼|が《ヽ》」というときには、「彼」の行動を「叙述」したことになる、というわけである。つまり、日本人は、「彼が言った」、というきわめて単純な事実についても、それを「彼」についての「説明」として受けとるか、それとも、「彼」の行為をたんに「叙述」したものと解するか、その両様の判断を、瞬時にくだしている、ということになる。  これはおどろくべきことではなかろうか。なぜなら、こうしたハとガの区別は、子供でさえも、けっして間違うことがないからである。日本人の脳には、事実を前にして、つねに、それをふた通りに判断するという�能力�が刷《す》りこまれているのである。そして、私は、ここに日本人独特の思考様式を見る。  人間の思考は、数多くの判断の組み合わせから成っている。その判断の最も基本的な単位は、AハBデアル(A is B)という形をとる。そこで、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、このような単純な判断を、論理の「原子」のようにみなし、もう、それ以上に分解できない「要素命題」「原子命題」と名づけた。つまり、どんな複雑な思考も、この基本的な判断から形成される、というわけである。  たしかに、すべての言語がこうした形をとっているなら、そのとおりであろう。しかし、言語の性格がちがうとすれば、その基本的な判断の単位も、とうぜん異なってくる。ラッセルは、A is B を、それ以上分解できない論理の「原子」としたのであるが、日本語の場合には、その「原子」がさらにふたつに分解できるのだ。  どのように? 「A|ハ《ヽ》Bデアル」という命題と、「A|ガ《ヽ》Bデアル」という命題とに、である。だとすれば、判断の基本的な形が日本語の場合、ふたつある、ということになる。そして、前者は「説明」をあらわし、後者は「叙述」を意味するのである。  では、なぜ日本人は「説明」と「叙述」とを区別するのだろうか。その区別は、いったい、何を意味しているのだろう。  私はここで日本人の生みだした十七文字の短詩、俳句を思い浮かべる。最近では俳句も国際的になり、HAIKU として世界各国で、さかんに作られるようになったと聞くが、俳句が異国人に興じられているのは、それが、たんに短い詩であるからではあるまい。おそらく、わずかな言葉で何事かを、「説明」するのではなく、「叙述」するという、まさに、その点にあるのではなかろうか。  連句から発句を独立させて「俳句」としたのは正岡子規であった。以来、多くの俳人によって、さまざまな俳論が展開されて今日に至っているが、その焦点ともいえるのは、子規以来の「写生」論であろう。  もともと「写生」という概念は、西洋絵画のデッサンに触発され、対象を客観的に描写する精神が文芸、そして俳句に導入されたものであるが、そのような「写生」論が、なぜ俳論の中心に据《す》えられて熱っぽく議論されてきたのか。私には、そのほうに興味をそそられる。それが日本語における「説明」と「叙述」、すなわち、ハとガという思考様式に深くかかわっているように思えるからだ。  子規は写生主義を掲げ、新聞『日本』紙上でさかんに俳句の刷新を唱導して、「日本派」を興した。それが虚子に受けつがれて、ホトトギス派を軸に現代俳句を形成していくのだが、その主張は、要するに、現実の風景をありのまま言葉に写す、ということであり、別言するなら、「説明」を排して、ひたすら「叙述」をめざそう、というものであった。むろん、そこでは「主観」とか、「客観」とか、「空想」とか、「理想」とか、「理屈」といった言葉がやたらに使われ、その概念規定が、いまひとつ明確ではない。が、ともかく子規や虚子が力説したのは、俳句とは説明するものではなく、叙述することだ、という考え方であった。  たとえば、子規はつぎのように説く。 [#ここから1字下げ] ——理窟《りくつ》は理窟にして文学に非《あら》ず。されども理窟の上に文学の皮を被《かぶ》せて十七字の理窟をものするも亦《また》文学の応用なれば時に之《これ》を試むるも善《よ》し。只《ただ》※[#二の字点、unicode303b]理窟の為《ため》に文学を没却せらるゝこと莫《なか》れ。理窟に合《あは》せんとすれば文学に遠く、文学に適せんとすれば理窟を離るゝこと、素《もとも》と両者全く其《その》性を異《こと》にするより来《きた》る者|故《ゆゑ》是非も無き事なり。……(『俳諧《はいかい》大要』) [#ここで字下げ終わり]  さらに子規は理窟の弊を、こうも述べている。 [#ここから1字下げ] ——理窟とは感情にて感じ得可《うべか》らず智識に訴へて後始めて知《しら》るべき者を謂《い》ふ。されども俳句(又《また》は其他の文学)に於《おい》て全く智識の活動を許さずと云《い》ふに非ず。例へば記憶は智識に属すれども短時間の記憶は殆《ほとん》ど感情と区別すべからざるものにして之《これ》を用ふるを妨げざるが如《ごと》し。故に吾《われ》の理窟と言ふは斯《かか》る細微なる智識を含まざる者なり。されば理窟多き句は何の面白き感をも起さゞるべく之《これ》を無趣味とも趣味|少《すくな》しとも評するなり。……(『俳句問答』) [#ここで字下げ終わり] 「智識」とか「記憶」とか、いろいろに論じられているが、その意味は、「説明」に尽きるであろう。つまり、子規がここで強調しているのは、俳句は説明ではない、叙述(景)するものだ、ということなのである。何かを説明するのは「理屈」であって、「理屈」に堕したら俳句はその生命を奪われてしまう、というわけだ。  しかし、問題はそうかんたんではない。というのは、「説明」と「叙述」との境界は、きわめて微妙だからである。子規は、ある雑誌にのっていたというこんな句を例に挙げている。   名月や裏門からも人の来る  彼はこの句を理屈だとする。なぜか。「裏門からも」の「も」がいかん、というのだ。名月の夜に、月を賞するために、裏門からも人が来た、ということは、表門からも人が来ていることをあらわしている。つまり、この句は裏返していえば、「名月の夜は表門からも人が来た」ということであり、「智識の上に事実を納得するに止ま」ってしまうから、句としての価値を損《そこ》なっている、と指摘するのである。そこで、これを「裏門を叩《たた》く人あり今日の月」と改作すれば、理屈がすっかり抜けて、ずっとよくなる、というのだ。  しかし、「裏門からも人の来る」という文言は、たんなる「叙述」ともいえないであろうか。それは解釈の問題である。もし、子規流に考えるなら、「今日も鳥が来て鳴いた」というのは理屈になってしまう。なぜなら「今日も鳴いた」といえば、「昨日も鳴いた」という意味を言外に含んでいるからである。けれど、この文章はたんに事実を「叙述」したものと受け取るほうが、ずっと自然のように思われる。にもかかわらず、それすら、「理屈」としてしりぞけるところに、私は日本人の「説明」に対する本能的な嫌悪《けんお》感をみるのである。  こうした俳句論議からもうかがえるように、日本人は、とかく事実を事実として、ありのままに受け取ることを、よしとするようだ。だから、自分の行動について「説明」しようとすると、それは「弁解」と受け取られ、けっして好ましく思われないのである。  私はこれを�事実主義�と名付けたい。�事実主義�とは、現実をそのまま受け取る、という態度であり、それを自然と見る考え方であり、ここから日本人特有の現実主義が生まれる。日本に禅が広く受け入れられたのは、おそらく、禅がめざす「無心」の境地が、日本人の説明|嫌《ぎら》いに、ぴったりあったからではないかと私は思う。  禅は「不立文字《ふりゆうもんじ》」とされ、あれこれ理屈をこねることを極度に嫌う。そこで、その精神は「柳ハ緑、花ハ紅《クレナイ》」といったまったくの「叙述」態度に集約される。「柳緑花紅」というのは、何の理屈も含まない。ただ、ありのままを表現しているに過ぎない。禅はそこに宇宙の神髄を見る。そして、そうした観照がそのまま俳句の「花鳥|諷詠《ふうえい》」へと通じているのである。  けれども、事実の「叙述」は、かならずしも、意味を持たせぬ、ということではない。それどころか、事実をありのままに叙述した言葉から、人はどのような意味をも汲《く》み出せる、ということなのである。したがって、こうした「叙述」は、人々に解釈の無限の自由を許すことになる。逆にいうなら、「説明」とは意味の限定なのであり、したがって説明文は人から解釈の自由を奪ってしまうことになる。日本人は、そのような�不自由�をけっして好まないのだ。   枯枝に烏《からす》のとまりたるや秋の暮  ヨーロッパを旅していたとき、私は芭蕉《ばしよう》の句集をポケットに入れていた。たまたま知り合ったドイツの青年から俳句についてたずねられ、私は有名な芭蕉のこの句を挙げた。青年は黙って私のヘタな説明を聞いていたが、最後に、こう言った。 「わかりました。枯れ木の枝に烏がとまっている、というんですね。でも、だからどうだというんですか?」 「だから、どうでもない。ただそれだけさ」と私は答えた。そして、「説明」と「叙述」の区別を設《もう》けないヨーロッパ語と、ハとガによって、思考の中まで両者を区別し、「叙述」に重きを置く日本語の性格の相違を、あらためて思い知ったのだった。 [#改ページ] [#小見出し]   なーんちゃって  流行語というのは、文字通り流行する言葉であるから、とうぜん、その生命《いのち》は短い。ことに現代のような情報のあふれた社会では、ますます短命にならざるを得ない。ここに挙げた「なーんちゃって」などというのも、ずいぶん前に流行《はや》ったセリフであり、そういえばそんな言葉がさかんに使われた時代もあったな、というぐらいにしか記憶にとどまっていないだろう。  それを今さら取りあげたのには理由《わけ》がある。泡沫《ほうまつ》のごとく消えていく無数の流行語のなかで、右の言葉は、ユーモアの本質をずばり開示しているように思えてならないからだ。といっても、私自身、こんな表現をだれが言いだしたのか、よく覚えていない。にもかかわらず、私はこれこそ流行語中の最高傑作だと断言してはばからない。こんなセリフを考え出した人はユーモア、滑稽《こつけい》、笑いの核心を直観的につかんでいる天才ではないか、とさえ思うのである。  私は講演を頼まれてあちこちへ出かけることが多い。依頼されるテーマはいろいろだが、ほとんどといっていいほど生真面目《きまじめ》な、深刻な題目ばかりである。  たしかに現代社会には、難問が山積しているのだから、演題が切実なものになるのは当然なのであろう。そこで、私も一生懸命に考え抜いて、少しでもお役に立ちたいと、額《ひたい》に汗をにじませ、与えられた時間いっぱい、時には超過してまで熱弁をふるうのだが、もし、その最後に、この言葉「なーんちゃって」をつけ加えたらどういうことになるだろうか。  たったこの一言で、それまで話してきた内容のすべてが、それこそ�お笑い�になってしまう。この短いセリフは、それほどの威力を発揮するのである。譬《たと》えが少々下品で恐縮だが、この寸言、いってみれば「百日の説法、屁《へ》一つ」と同様の効果を生みだすわけだ。  しかし、こうした不意の転換こそ、笑いを誘いだす何よりの動機といえるのではなかろうか。だから、ここには笑いの本質が秘められているのだ。  人間の感情のなかで、いちばん解明しにくいのは「笑い」である。怒りや、悲しみは、比較的容易に説明できる。そうした感情を生みだす原因が、はっきりしているからである。だから相手を怒らすことは、やろうと思えばだれにでもできる。悲しませることも、けっしてむずかしいことではない。ところが、人を意図的に笑わせることは、そう簡単ではない。それはきわめて知的な計算、技術を必要とするのだ。落語家や漫才師がギャグをひねりだすのに、どれほど苦労しているか、察するに余りある。言葉で人を笑わせるのには、人間の心理、世相、その場の雰囲気《ふんいき》などを、充分考慮に入れた深慮遠謀が必要だからである。  そんなわけで、これまでずいぶん多くの哲学者、心理学者、文学者たちが、「笑い」の分析に立ち向ってきた。なかでも、よく知られているのは、フランスの哲学者ベルグソンの「笑い」についての試論であろう。  この論文は、これまでおびただしい読者を獲得してきた。いや、いまだに日本でも読みつがれ、「笑い」といえば、すぐベルグソンを思いだすほどである。むろん、私も幾度かページを繰った。  だが、正直に告白するが、何回読み直してみても、私は途中で投げ出してしまう破目になった。どうにも、よく理解できないのだ。訳者、林達夫の「解説」(岩波文庫『笑い』)によると、ベルグソンのこの著作は、「笑いと喜劇との正式法廷|訊問《じんもん》」であり、「笑いはベルクソニスムと同じく自動的なもの、こわばったもの、出来合いのものに対する反撥《はんぱつ》、生の自発性、流動性への合流」なのだそうだが、もしそうだとするなら、「怒り」についてもまったく同じことがいえるのではなかろうか。もし、そうなら、ベルグソンの分析は、笑いについての|必要な《ヽヽヽ》条件の解明ではあっても、|充分な《ヽヽヽ》条件を満たしている、とは言い難いような気がする。  さらに、この著作を理解しにくくしているのは、ここで笑いの引きあいに出されているのが、主としてモリエールの喜劇であるということだ。笑いというものは、時代によって変わるのはもちろんのこと、民族によっても、かなり性格を異にする。ことに言葉の機知や洒落《しやれ》といったものは、その国の、いや、同じ国であっても共通の言語域にいないかぎり、けっして通じ合うものではない。だから、モリエール劇のおかしみは、フランスの思考様式に通じていない日本人にはピンとこないのだ。  むろん、ベルグソンも、そうした点は充分に心得ており、「笑いは必ずや共同生活の或《あ》る要求に応じているもの」といい、「或る社会的意味をもっているものに違いない」と述べている。だから、その「共同生活」や、その「社会」の外にいる人間には、容易に通じないということになる。要するに、この有名な試論にしても、結局、笑いについての一般的な説明以外には近づいていない、といわざるを得ない。  立場を変えていうなら、江戸時代の狂歌や川柳を例にして、笑いを分析した日本人の論文を、フランス人が翻訳で読んでも、さっぱりわからないのと同然である。たとえ日本人でも、江戸期という比較的近い時代の笑いさえ、もう理解を越える、ということは、ざらにあるのだ。  ところで、「なーんちゃって」という流行語は、何年か前に流行《はや》ったのだが、こうした表現は、たしか、戦前にも流行したことがあるように記憶する。まだ私が若かったころだ。そのときは「とかなんとかいっちゃって」という形だった。あるいは、流行歌の歌詞に使われたのがきっかけだったのかもしれないと思い、いろいろ調べてみたのだが、とうとう見つけることができなかった。それが戦後では、「なーんちゃって」という、いっそう滑稽《こつけい》な表現にちぢまったわけである。  それにしても、これは何を意味するのであろう。 「とかなんとかいっちゃって」を、仮に英語かフランス語にでも翻訳するとしたら、どう意訳したらいいのか。真面目に解せば、その大意は、「(あんたは)……などと、たいそう偉そうな(あるいは格式張った、あるいはいかにも正当ぶった)ことを言っているが、本音をぶちまければ、そんなもんじゃあるまい」という、相手に対する冷やかし、揶揄《やゆ》、反論、暴露をこめた�ひっくり返し�と受けとることができよう。  いや、これは、なにも相手や第三者だけに向けられる言葉ではなく、自分に対して使う場合だってある。げんに噺家《はなしか》や漫才師は、しばしば大真面目な、まるで教師のような説教を試みたあげく、「なーんちゃって」と言って、瞬時に自分の言説を自分でひっくり返す。すると聴衆はどっと笑うのである。  そうした噺の専門家でなくても、この言葉はよく自分に対して使われる。その場合は、たいてい照れかくしのことが多い。自分で自分の偉そうな言辞に気付いて、そのあとにこれをつければ、ただちに相手の不快を笑いに変えることができるからである。  しかも、このセリフは、それまでの言説を完全に否定し去るわけではない。一応否定の形はとるが、ある程度の中味は保存して、それを笑いに|まぎらす《ヽヽヽヽ》のである。そうすれば、この言説の二、三割は相手に快く受け入れられる。つまり、この言葉は、むずかしいコミュニケーションの潤滑油の役割をも果たしているのだ。  げんに私自身、このセリフを吐きたくてたまらない衝動に駆られるときがある。演壇で柄《がら》にもないことを、偉そうにしゃべったときなど、しばしば自己|嫌悪《けんお》におちいり、あるいはテレビカメラを前に、しかつめらしい解説や意見を述べるような場合、最後に「なーんちゃって」と言いたくて仕方がないのだ。  しかし、公共の場でそんな放言をしたなら、聴衆や視聴者を侮辱することになるから、かろうじて、その衝動を抑える。じつは、それは自分で自分を侮辱することなのであるが、同時に、聴き手をも、はぐらかすことになるのだから厄介《やつかい》だ。厄介というより、それだけ、この片言隻句《へんげんせきく》は微妙で、かつ強力な働きを持っている、と解すべきであろう。  ところで——どんな人間にも時間は順調に流れている。時間が逆行するなどということは、ありえない。そうした時間の中に生きている人間は、とうぜん、時間とともに順調な行為を予想しており、たんに行動だけではなく、認識の過程でも順を追って、あらゆることを理解し、了解するよう頭を働かせている。つまり、人びとはつぎの瞬間が、予想通りに展開することを、無意識のうちに期待しているわけである。  だが、その期待が|不意に《ヽヽヽ》外《はず》れると、ある場合には恐怖が、しかし、それが自分にとって、まったく無害であるときには笑いが、瞬時にこみあげてくる。そこで、多くの論者は、「不調和」という要素を、笑いの核心に据《す》えるのである。チャップリンの|いでたち《ヽヽヽヽ》は不調和以外の何ものでもない。  しかし、私はここで笑いについての分析を試みよう、などというつもりはない。だいいち、私はそんな能力を持ちあわせておらぬ。ベルグソンは言っている。「アリストテレス以来」、多くの思想家が、笑いという「このちっぽけな問題」と格闘してきたが、笑いは「いつもその努力を潜《くぐ》りぬけ、すりぬけ、身をかわし、またも立ち直」って、哲学的な思索に対し、「小癪《こしやく》な挑戦」をつづけてきた、と。  たしかにそうである。笑いは、どんな哲学者に対しても冷笑をやめなかった、いや、いまもってやめていない。私にできることは、せいぜい、その網《あみ》にかからぬことだけである。  などと言いながら、私も、笑いについて、いささか駄弁《だべん》を弄してしまった次第だが、笑いの本質を解明することの至難さは、笑いが、怒りや悲しみといった他の感情とくらべて、じつに多様だからである。笑いを生む動機には、姿形《すがたかたち》のおかしさもあれば、言葉の綾《あや》が織りだすものもあり、行為のちぐはぐさや、機知がつくりだすトリックもある。しかも、無邪気な笑いから、嘲笑《ちようしよう》、お愛想笑い、媚《こ》び笑い、照れかくしの笑い、昨今、外国人にさかんに指摘される日本人の無意味な笑い(ジャパニーズ・スマイル)に至るまで、笑いには、じつに千差万別の性格があるといっていいほどだ。  こうなると、笑いの分類学から始めなければ始末がつかない。ちなみに知り合いの中国人にきいてみたら、中国にも笑いの種類は数多くある、と言って、たちどころに十何種も挙げてくれたのには驚いた。そのなかには、「獰笑《ねいしよう》」などという日本に輸入されなかったものもたくさんある。「獰笑《ニンシヤオ》」とは、ニヤリと笑って余裕を示す体《てい》の笑いなのだそうである。  しかし、笑いのなかでも面白いのは、ナンセンスなものより、やはり機知に富んだ頭が生みだすユーモアであろう。いまだに忘れられないのは朝日新聞の「天声人語」を書いていた同僚の故・深代惇郎《ふかしろじゆんろう》君が、あるとき教えてくれた英国人のこんなウィットである。  イギリスの議会で論戦のさなか、一人の議員が立ちあがり、「ここにいる議員の半分はバカだ!」と言った。議場はたちまち騒然となった。議員を侮辱したというので議長が発言の撤回を求めると、件《くだん》の議員は素直に「前言を取り消します」と、こう宣言したというのだ。 「ここにいる議員の半分はバカではありません」  私は「なーんちゃって」もこれに近い知的ユーモアだと思うのである。 [#改ページ] [#小見出し]   カンケイナイ  夜十時過ぎだったろうか。JRのK駅近くで私は急いで公衆電話をさがした。まだ店を開けていたクスリ屋の前に設置された緑色の電話を見つけたので、急ぎ足で近づくと、私より一歩先に、高校生らしい女の子がテレフォン・カードを差し入れ、電話をかけ始めた。  私は、そのうしろに立った。少女はむろん、私が待っていることを知っている。半身《はんみ》で私の姿をながめながら、電話でやりとりをしているのだから。  ところが、いつまでたっても話が終わらないのである。五分、やがて十分になろうとした。私はイライラし始め、ほかの電話をさがしに行こうと思ったが、もうそろそろ切るだろうと、じっと我慢していた。が、依然として少女は話をつづけ、しまいには、立っているのがくたびれたのか、受話器を耳にあてがったまま、クスリ屋の店先の石段に腰をおろし、私と向かい合ったまま、いつ果てるともない会話を楽しんでいる。  たまりかねて、私は早く電話を切りあげるよう合図をした。が、彼女はそんな私など全く無視して、さらに延々と友だちとの会話にふけっている。まるで喫茶店で雑談でもしているように。  私は腹が立つより、呆《あき》れた。そして、どのくらい大人の私を待たせるのか、ひとつテストしてやろうというつもりになって、わざとその場をどかなかった。しかし、二十分を過ぎると、さすがの私の忍耐も限度を越えた。重要な用件ならともかく、その会話は、まるで私をじらすために引き延ばしているとしか思えないようなおしゃべりなのだから。  三十分近くなったとき、私はついに、その少女に向かって、早く話を切りあげてくれないか、といった。だが、彼女は私を黙殺し、依然として会話をつづけている。「それでよオ、……なんだよ。で、どうしようか。でもさあ、……んじゃない?」という調子である。  私はたまりかね、「きみ、そんなに話が長くなるなら、いったん切ってくれないか。オジさんの電話は三十秒もかからないんだから、そのあと、つづけたらどうだい」と言った。少女は石段から私を見あげ、受話器を手で押さえて、「どっか、ほかさがしなよ」と答えた。  とうとう私は怒りを爆発させた。そして、「いい加減にやめなさい!」と思わず大声を出した。少女は私の剣幕におどろいたのか、「じゃあね、いったん切るよ、うしろの人がうるさいから」といって電話を切った。  制服を着てカバンを手にした高校生である。そこで私はその少女に向かって、「きみね、公衆電話で、つぎの人が待っていたら、なるたけ早く用件をすませて迷惑がかからないようにするのが当たり前じゃないかい。この電話は、きみ一人のものじゃなく、みんなのための電話なんだよ」と説教した。  するとその女子高校生は、さも憎々しげに私をにらみつけ、「そんなこと、カンケイナイ」と言い捨てて、闇《やみ》に消えた。私は何とも情けない思いで、帰宅するまで心が晴れなかった。  つぎの日、昨夜のことが気にかかっていたので、たまたま、あの少女と同年ぐらいの高校生(といっても、その高校生は男子生徒なのだが)にきいてみた。 「きみたち、カンケイナイ、という言葉を、よく使うかい?」 「うん、一日に一回ぐらいは使うな」 「どんなときに、そう言うんだい?」 「そうだなあ、つまりね、友だちや、仲間同士で話なんかしているとき、部外者が口を出したりする場合だよ」  私はやっと謎《なぞ》が解けたような気がした。たしかに、あの少女は仲間と電話で会話を愉《たの》しんでいたのである。その内容が、大人から見れば、どんなに下らぬもののように思えても、当人には電話で話し合う価値が、充分にあるのだろう。少女にとって、私はあきらかに「部外者」である。その部外者に話の邪魔をされることは、不当この上ないことなのだ。  まして、自分は自分のカネで(つまり自分のテレフォン・カードで)電話を使用しているのである。それを「早く切りあげろ」などという権利は、たしかに、こちらにはない、といえる。だから彼女は憤懣《ふんまん》やるかたない思いで、「カンケイナイ!」という捨てゼリフを残して立ち去ったにちがいない。  それにしても——私は、なお割り切れぬ気分で、こんどは知り合いの中年のサラリーマン(彼はある会社の課長をつとめている)に、この一件を話し、彼の意見を徴《ちよう》してみた。すると、彼は私の�非常識�におどろいた様子で、こう冷やかに言った。 「そんなことに腹を立てるなんて、そっちのほうが、どうかしてますよ。子供だけじゃない。大人だって、自分のうしろに、何人待っていようが、平気で長電話してますからね。ひとつにはテレフォン・カードのせいでしょう。あれだと、いつまでも、かけていられますから。それにしても、あとからきて、話を早くやめろ、なんて権利はだれにもないわけですよ」 「しかし、公衆《ヽヽ》電話だよ、きみ」と、私は言った。 「いくら公衆電話といったって、何分で通話を打ち切れ、という規則はないでしょう。たまたま、そういう人のあとに並んだのが不運だったんですね」 「じゃ、きみなら怒らないかね?」 「怒ったってしょうがない、べつの電話をさがしに行きますよ」 「もし、近くになかったら?」 「まあ、じっと待つほかないでしょうね。いまは、そういう世の中なんだから」  彼の話をきいて、私はますます憂鬱《ゆううつ》になった。日本の社会は、かくも他人を思いやるという美風を喪失し、自己の権利だけを主張するようになってしまったのかと、あらためて思い知らされたからである。  |ratio《ラチオ》 というのはラテン語で「計算」を意味するが、ほかに、「熟慮」、「理性」、「道理」の意でもある。rational(合理的)、reason(理由、理性)といった英語はそのラテン語に由来する。が、要するに ratio とは「|関係づける《ヽヽヽヽヽ》」ことなのである。したがって、ここから「推理する」という内容も持つことになる。推理とは、ものごとの関係を見きわめ、それによって判断を下す思考能力にほかならないからだ。とすれば、「人間は理性的動物である」という定義は、「人間はものごとを|関係づける《ヽヽヽヽヽ》能力を与えられた生物である」と言い換えてもいいし、「人間は推理する動物」と規定してもいい。  念のため『哲学事典』(平凡社版)を繰ってみたら、ratio の項に、こんなふうに書かれていた。 [#ここから1字下げ] ——人間が理性的動物であるのは単に概念的|思惟《しい》を行ないうる能力だけについていわれているのではなく、他の動物がすべて本能的な衝動によって行動するのに対して、人間の行為には義務の意識がともなうことが本質的であり……義務ないしは当為《とうい》の意識によって決定される行為を理性的であるといい、そういう行為をみちびく能力をも理性のうちにふくめる。…… [#ここで字下げ終わり] 「理性《ラチオ》」の定義や学説などを詮索していけば、それこそ、哲学史を復習することになりかねないが、私は、そのような人間の本質を、端的に「|関係づける《ヽヽヽヽヽ》能力」と考える。科学の中心概念をなすのは因果|関係《ヽヽ》であり、宗教、たとえば仏教は、それを「縁《ヽ》」としてとらえている。  自然科学や宗教だけではなく、およそ人間社会は「関係の体系」とみなしてもいいのである。そこでドイツの社会学者L・ヴィーゼは「関係学」Beziehungslehre を提唱した。社会学とは、要するに人間の関係学だというのである。  戦後、日本にもアメリカ経由で「人間関係《ヒユーマン・リレーシヨンズ》」という言葉が輸入され、いまでは、すっかり定着して、日常語のようになってしまった。その「人間関係」とは、もっぱら会社経営の人事管理、企業内のマネージメントの分野で使われたのだが、そうした人と人との関係が、さも新しい考え方のように騒がれたこと自体、少なくとも、戦前まで日本人の間で、そのような「関係」があまり意識されなかったことを語っていよう。  だが、日本人は、けっして人間関係に無頓着《むとんちやく》だったのではない。それどころか、欧米人にくらべても、人いち倍、他人に気を使ってきたのである。日本語ほど相手によって、ものの言い方が変わる言葉はない。この点については、先に「人間」という言葉を取りあげた際、縷説《るせつ》したから、ここでは繰り返さない。  それを何より証しているのが、日本独自の文芸形式である連歌、もしくは連句であろう。連歌とは、一人が和歌の上《かみ》の句(五・七・五)、あるいは下《しも》の句(七・七)を詠《よ》むと、連座しているもう一人が、それに対して応答し、下、もしくは上の句を継ぎ、そのようにして三十六句(歌仙)、あるいは百句(百韻)を完成させる、という風雅な�遊び�である。こうした連歌から、やがて俳諧《はいかい》連句が生まれ、芭蕉《ばしよう》がそれをすばらしい芸術にまで高めたことは、周知のとおりである。  そのような連歌、連句は、人の詠んだ句の意を充分に察し、それに対して自分の心境を、前句の趣きをそこねないように付けていく、いわば詩の交響楽といってもよい。芭蕉がその付け方をさまざまに探究して、「におい」とか、「ひびき」、「うつり」、「おもかげ」といった様式を創造したことも、よく知られている。  私は折りにふれ、こうした連歌、連句を味わうたびに、日本人が、いかに他の人の心情を忖度《そんたく》し、細かく配慮する民族であるか、あらためて誇らしく思う。それは他人の胸中を察し、思いやるという倫理にも通じているからである。連句研究の権威である能勢朝次《のせあさじ》氏も「他を生かすことによって自己を救い、自己を充足させることが同時に他を生かすことになる」そのような立場を連句に見、この詩の形式に倫理性を感じとっている(『連句芸術の性格』)。  しかし、こうした連歌や連句は、いまや、すっかり衰退してしまった。そして、それとともに、日本人の心から、他人の心情を思いやる余裕も、度量も、愛情も、しだいに涸《か》れていってしまったように思えてならない。  もっとも、連歌といい、連句といっても、それはあくまで数人の仲間(連衆《れんじゆ》)から成る「座」での詩のやりとりである。そのくらいの狭い範囲なら、現代でも「思いやり」は、まだ残っているのかもしれない。  さきの高校生の言葉からもうかがえるように、最近の中・高生は、やたらに小人数の仲間意識が強いようだ。が、彼らにとって仲間以外の「部外者」は、まったく「カンケイナイ」のである。  カンケイナイ。私はこんな言葉が、子供や若者のあいだに、日常語として相変わらず乱用されている現状を、ひたすら悲しむ。そして、国際社会における日本の将来を、心から憂《うれ》えざるをえないのである。 [#改ページ] [#小見出し]   ア・イ・ウ・エ・オ  小学校に入って、最初に教えられる文字は、「あ・い・う・え・お」に始まる五十音の平がなである。  昔は片カナのほうが先だった。私が習った『尋常小学校 国語読本』巻一は、「ハナ ハト マメ マス」で、そこに五十音図が片カナで表示されており、いまでは全く使われなくなってしまった「ヰ」とか、「ヱ」も出ていた。文字の表記はしだいに簡易化していくものだから、将来は、かつての五十音図の最後の行「ワ・ヰ・(ウ)・ヱ・ヲ」、現行の「ワイウエヲ」は、最初の行「ア・イ・ウ・エ・オ」に、ぜんぶ吸収されてしまうのではなかろうか。  それはともかく、五十音、最初の「ア・イ・ウ・エ・オ」は、いうまでもなく「母音」である。母音とは「呼気が口腔で通路を妨げられず」(『広辞苑』)に発せられる音で、つまり、最もかんたんに、自然につくられる音のことである。日本語の語尾は、すべてこの母音でしめくくられている。  その「ア・イ・ウ・エ・オ」を、日本で「母《ヽ》音」と称するのは、まことに当を得たものといっていいだろう。この音こそ、最も自然であり、基本であり、発しやすいからだ。言葉とは、まさしく、この音を「母」として生まれた、とさえ思える。げんに感嘆詞は、どの民族の言葉でも、たいてい母音から成っているではないか。「ああ!」とか、「おお!」というふうに。  バラモン教では「オーム」という音を、「聖音」としている。これも「ア・ウ・ム」の音素から成り、母音を主とする。仏教でいう「阿吽《あうん》」はここに由来するのだろうが、その意味は、サンスクリット語で、「阿《あ》」は開口一番に発せられる音、「吽《うん》」は口を閉じて発音される最後の字音であるところから、始めから終わりまで、すなわち、万物の始源、終末をあらわしている。 「阿吽の呼吸《ヽヽ》」というのも、そうした万物一切を吸い、吐くことにより、対話者が互いに気持ちを通じ合う微妙な作用を意味する。「あうん」とは、日本流にいうなら、要するに五十音の最初の「ア」から、最後の「ン」に至るまで、ということであり、ギリシア語でいうなら、最初の「アルファ」から、最後の「オメガ」まで、というのと同義である。  とすれば、母音、とくに「ア」は、どんな民族にあっても、重要な役割を果たしている、とみてよかろう。  ところで、前記インドのバラモン教における聖音「オーム(ア・ウ・ム)」であるが、この三つの音はいろいろに意味づけられているようだ。  それはインドの三主宰神、ブラフマー・ヴィシュヌー・シヴァと同一視されたり、あるいは「誕生」、「存在」、「死」にふりあてられたりしている。たしかに、母音は発音の親ともいうべき音素であるから——人間の言葉は、おそらく、「あー」とか「うー」とかいう発音に始まったにちがいない——この音がまず、重要な単語に与えられたことは、察するに難くない。  たとえば、「自分」をあらわす一人称の日本古語は、「|あ《ヽ》(吾・我)」であり、中国語は「|ウ《ヽ》ォー(我)」である。また、英語で「|アイ《ヽヽ》」であり、ドイツ語では「|イ《ヽ》ッヒ」だ。地球上には枚挙にいとまないほどの言語があるのだから、二、三の例をもって全体を推し量ることはできないが、人間が最初に必要とした言葉は、何より、自分を指す一人称であったろうから——そうでなければ、自分の意志を表明することができず、生存をおびやかされたにちがいない——その一人称に、最も発音しやすい母音が使われたのは自然のことだったのだろう。  そう考えると、ア・イ・ウ・エ・オの母音を初音《しよおん》につくられている派生語の、ひとつひとつを点検してみたくなる。たとえば、島国である日本では、天と海とが宇宙を構成する上下世界だった。そのふたつが、ともに「|あ《ヽ》ま・|あ《ヽ》め=天・海」とされており、それが人体では「頭(|あ《ヽ》たま)」、「足(|あ《ヽ》し)」となっているのも考えさせられる事例であろう。  こんなふうに、母音の各音について考えていったらきりがないが、私にとって、とくに気になるのが、なかんずく「ウ」である。というのは、その音に日本人特有の宇《ヽ》宙像が秘められているような気がしてならないからだ。  そのきっかけは、蕪村《ぶそん》のつぎの名句だった。   うつゝなきつまみごゝろの胡蝶《こてふ》哉  この句が蕪村詩の本質を暗示していることについては、多くの論者が指摘しているところだが、その代表として、中村草田男の評釈を引かせてもらおう。  彼の解はこうである。 [#ここから1字下げ] ——胡蝶が二枚の翅《はね》を一枚のように収めている。それを二本の指の間につまんでみると、何ともいわれないほのかな夢のような感触である。 [#ここで字下げ終わり]  そして、草田男はこの句の真価を、さらにつぎのように述べている。 [#ここから1字下げ] ——厳密にいって、ここにはもはやいかなる「人間」もいかなる「心」も存在していない。存在しているのは——向かい合って触れ合っている極度に狭い二つの指頭——指の腹同士——の感覚だけである。二つの指頭とその間にはさまれている二枚の胡蝶の翅《はね》とが、押し合うともなく擦《す》れ合うともなく作用し合うときに、夢とも現《うつつ》ともなくそこに生まれてくる感覚だけである。……(『蕪村集』大修館書店版) [#ここで字下げ終わり]  これに、私の贅言《ぜいげん》を加える必要はあるまい。が、私がこの句に感嘆したのは「うつゝなき」という巧みな措辞だった、といっておこう。  その「うつつ」であるが、「うつつ」とは、「現実」のことである。したがって「うつゝなき」とは、「現実とは思えない」という意味だ。そこから、「夢かうつつか」という慣用句が生まれ、こうした慣用から「夢心地」の意に誤用されることも多くなった(岩波版『古語辞典』)らしい。  しかし、いずれにせよ、「夢」と対比される「うつつ」という和語は、音そのものからして特有の語感を持っている。それを巧みに取り入れて、「うつゝなき」と描破したところに、蕪村の表現力が見事に示されている。  むろん、この一句が荘子の「荘周《そうしゆう》の夢」をふまえていること、いうまでもない。荘周が夢で胡蝶となり、目覚《めざ》めて、ハテ、自分は胡蝶になった夢を見たと思っているが、それは逆で、じつは、もともと自分は胡蝶で、その蝶が荘周になった夢を見ているのではあるまいか、と考えこむ、あの故事である。その心境は、まさしく「夢」と「うつつ」が交錯する幻《まぼろし》の境といえよう。  では、「現実」を意味する「うつつ」のウという母音に、日本人はどのような内容を与えたのだろう。  おそらく、広大な空間のイメージだったように思われる。といっても、その空間は果てしない「宇《ヽ》宙」のように茫漠《ぼうばく》としたものではなく、広大ではあっても、同時に、それを覆《おお》い、包み込むものをも表象したにちがいない。たとえば「広い場所」という概念のなかには、広い空間を囲い、覆うものの存在が、同時にふくまれている。後楽園のドームのように。  つまり、広い空間はつねに限定を伴《ともな》うのであり、その代表ともいうべきものが「宇《いえ》」あるいは「家《いえ》」であろう。漢語の「宇《う》」には、「軒」とか、「庇《ひさし》」、その下の空間、あるいは「屋根」、「家」、さらには「天」、「空間」、「さかい」、「天下」など、多くの意味があるようだが、それも、空間と、それを区切るもののイメージの複合といってよい。だから日本人は、「宇《う》」を「いえ」と訓じたのである。  こうした表象を、そのまま担ったのが「うつ」という言葉だった。だから「うつ」には、「内」の意味とともに、「全」という語義もあり、さらに「空」、「虚」の意もふくまれている(岩波版『古語辞典』)。  それは一定の空間をかこみ、覆うテントのようなイメージといってもよかろう。それを内側からながめれば、たしかに「内」であるが、外部から見れば、区切られた空間そのものは「全」であり、さらに内部に立ち入ってみると「虚」ということになる。  こうして「ウ」は「大」、「内」、「全」、「虚」といったさまざまな表象を併せ持つことになった。だから、ウシといえば「大人《うし》」のことであり、ウツロというと「虚《うつろ》」、すなわち空《から》っぽの意となり、(セミの脱《ぬ》け殻《がら》である「空蝉《うつせみ》」、あるいは、愚人をさす「|うつけ《ヽヽヽ》者」)、さらに「移す」、「移ろう」、「写す」という動詞も、「内」、「全」を他へそっくり動かすということからつくられた動詞とされている。 「器《うつわ》」や「美《うつく》し」もウツを語源と見ることができよう。『日本語語源辞典』(前出)によれば、「器」とは「内張《うつは》」、すなわち内が広がっているもののことであり、「偽《いつわ》る」とは「虚張・る(うつはる)」の転で、「架空のことを言い張ってだますこと」と、『大言海』の説に従っている。また「美し」とは「内奇《うつく》」し、あるいは「現奇《うつく》」し、すなわち「内面が充実」し、「現実に見るもの」が「奇《く》し」という状態という。  さて、こうなると、「うつ」は、いよいよ、日本人の根源的な世界像にかかわっているように思えてくる。この言葉は、ウから発して現世の表象に大きな役割を果たしているのだ。「うつつ」は、「うつろい」、そして「うつくしい」という日本人の情感にも大いに力を貸しているのである。  日本人の心の底に流れる独特の無常|感《ヽ》は、その「うつつ」の意識に根ざしている、といってもいいのではあるまいか。だから「夢か現《うつつ》か」という境地が日本の詩歌の根源に働き、それを鑑賞する側の魂もゆすぶることになるのだ。私が蕪村の「うつゝなきつまみごゝろの胡蝶哉」の句に深く打たれるのも、そのゆえにちがいない。  ところでその蕪村の句であるが、安東次男氏は、これを芭蕉《ばしよう》の歌仙の付句である「何《なに》よりも蝶の現《うつつ》ぞあはれなる」と並べて、蕪村がいかに芭蕉の句に深い想いを寄せていたかを論じている(日本詩人全集『与謝蕪村』)。  たしかに、芭蕉も蝶に「うつつ」を見ている。しかし、その「うつつ」は、蝶が実際に生きる姿というより、花にたわむれて夢のように生き、夢のように死んでいく、その「うつつ」である。蕪村は、それを「うつゝなき」と表現したのだ。私は蕪村が芭蕉の付句を意識していたとしても、彼のこの句は芭蕉を越えているように思う。  新井白石は『東雅《とうが》』のなかで、「ウ」に言及し、「古語に凡《およそ》草木の類叢《たぐひむらが》り生《お》ふるをフといひ、転じてはウといひけり」と記している。とすれば、ウには「|う《ヽ》まれる」という意もこめられているのかもしれない。そうなれば、母音ア・イ・ウ・エ・オのなかでも、とくにウは軽々に見すごせぬということになろう。  むろん、ほかのイも、エも、オも、追究していけば、日本人の思惟《しい》方法について多くの示唆《しさ》を与えてくれるはずである。が、やはり、私はウにこだわる。とくに「うつつ」に気を取られる。蕪村の句が、私に、すっかり、しみついてしまっているからであろう。  そういえば、蕪村には、こんな句もある。   はだか身《み》に神|うつり《ヽヽヽ》ませ夏《なつ》神楽《かぐら》 [#改ページ] [#小見出し]   根ほり葉ほり  言葉は�関心の関数�といってもいい。ある対象に興味が集まれば集まるほど、それに与えられる名称の数はふえていくからである。  たとえば、前にもふれたが(『日本語 表と裏』)、アラビア語には「蛇《へび》を表わすのに二〇〇以上、ライオンを表わすのに五〇〇以上、鷹《たか》を表わすのに一〇〇〇以上の同義語が数えられる」のだそうである(アンリ・セルーヤ『アラブの思想』矢島文夫訳、文庫クセジュ)。  とうてい信じがたい数だが、もしそうだとするなら、それはそのまま、アラビア人の関心の強さを示しているといえよう。つまり、それだけ、彼らは、そうした生物に注意を払っているわけである。  とうぜん、砂漠《さばく》の民の生活に不可欠である駱駝《らくだ》についての名称も多く、その歩き方ひとつひとつにまで呼び名が与えられており、また、成長段階に応じても名称が変わる。前記の書物によれば、アラビア語は「巧妙な機構によって定められた規則に従う従属的文字が語根文字につけ加えられたり、中間にはまりこむことによって、想像力をとまどいさせるほどの豊富さをもつ語彙《ごい》を創り出している」ということだ。  しかし、これはなにもアラビア語にかぎったことではなく、すべての民族の言語についていえるのではなかろうか。だから、あるものについての名称の多少によって、その民族が何に関心を持ち、どんな対象に細かな注意を向けているか測ることができる、ともいえよう。  たとえば、日本人が「雪・月・花」に対して、どれほど多彩な詩情を抱いてきたか、そのうちの「月」について、ちょっと思い返しただけでも、たちどころに数多くの名称が浮かぶ。春の「朧月《おぼろづき》」、秋の「名月」、冬の「寒月」をはじめ、「十六夜《いざよい》」、「片割れ月」、「宵待月《よいまちづき》」、あるいは「有明《ありあけ》の月」「雨ふりお月さん」……。  こうした点から日本人の心性を割り出してみたら、どんな表が出来あがることだろう。この意味で、私が興をひかれる日本語の語彙はいろいろとあるのだが、ある日のこと、「屋根」という題でエッセイを頼まれたとき、あらためて「根」という言葉が気になりだした。 「根」とは辞書を引くまでもなく、植物が地中に張って、養分を吸収する器官である。そこから、ものごとの「もと」の意にも使われるようになり、人の「心の底」、あるいは「気だて」をもあらわすようになった。が、いずれにしても地中、あるいは心の中に秘されているものであり、人間がそこに不思議な力を見ていることに変わりなかろう。  ところが、「屋|根《ヽ》」というのは建物の上部、「根」とはまったく反対の位置にあるものだ。それなのに、なぜルーフを日本人は「屋|根《ヽ》」というのだろう。この言葉は、すでに『万葉集』にも見られ、ずいぶん古くから使われていたようだが、それが家屋の下部、土台ではなく、逆に「家屋の上部を覆《おお》って雨風を防ぐもの」(岩波版『古語辞典』)を意味しているのは、どういうことなのか。  いろいろ調べているうち、滝沢真弓氏のつぎのような「私見」に教えられた。氏はこう述べているのである。 [#ここから1字下げ] ——屋根、こう書くと、ヤネというのは家屋の根っ子で、土台より下部ということになりかねない。が、私見によればこのネは峰・嶺《みね》・棟などに共通のネで頂上の意だ。だから屋根なんて当て字は根っから当てにならぬ、ということになる。……嶺にはヲという読み方もある……このヲにネを付けて峰嶺と書くべきところを当て字して尾根などと書くようになった。屋根よりもナンセンスというべきである。(『建築 もののはじめ考』大阪建設業協会編) [#ここで字下げ終わり]  だから「屋根」とは、正しくは「屋嶺《やね》」と書くべきなのだが、その「嶺」を「根」などという字に換え、それにいつのまにか「根が生えてしまった」ので、いまや「抜き差しならぬ始末」になった。「"Roof"は金輪際"Root"にはなるまい」と氏は冷やかしている。  なるほど、と思い、私はあらためて日本語に多い当て字に欺《あざむ》かれてはなるまい、と大いに反省させられた。  表意、表音の両機能を持つ漢字のややこしさは、こういうところにあるのだろう。  さて、「根」というものに対する日本人の(中国人も同様であるが)思い入れは、やはり、農耕民であることからきているにちがいない。むろん、農耕というなら、地球上の大半の文明が農耕を原点としているといってもいいのだが、日本人は、とくに草木に対して、特有の感情を移入してきたように思われる。  亭々たる巨木を支えている根、食生活の中心となった根菜、そして根を傷《いた》めぬように注意深く一本一本を挿《さ》していく田植え、こうした生活のなかで、日本人が植物の「根」について、特別の感情を抱くようになったからとて、一向に不思議ではあるまい。「根」は何といっても生命の根源であり、いちばん大切な器官であり、母なる大地と深い関係を結ぶ重要な役割を果たしているのであるから。  日本人のこのような「根」のイメージは、記・紀に語られる「根《ね》の国(根《ね》の堅州国《かたすくに》)」という地下の世界に始まり、しだいに日常語にも「根《ヽ》」を張っていった。「根っから」、「根絶やし」、「根深い」、「根ざす」というような用語から、「根クラ」、「根アカ」などという最近の流行語に至るまで、「根」は、いまなお大いに活躍している。 「粘《ねば》る」、「練《ね》る」、「ねだる」、「狙《ねら》う」などという動詞は、一見、「根」とは無関係のようだが、思わぬところに生えてくる筍《たけのこ》のように、これらも意外に「根」という言葉に根《ヽ》を持っているらしい。語源辞典を繰ってみると、「粘る」とは「根張る」であり、また「練る」とは「ネバリを生じるようにこねて製する」ことで、これも「根」に由来し、さらに何かを執拗《しつよう》に頼みこむ「ねだる」も「根邀《ねだ》る」、「ねじる」も「根・づ」だとある(『日本語語源辞典』藤堂明保監修・清水秀晃著)。  そういえば、たしかに根を切ろうとするとき、ひねったり、ねじったりすることが多い。  また、「根城《ねじろ》」、「垣根」、「根太《ねだ》」というような住に関する言葉や、その住居を荒らすネズミも「根棲《ねず》み」、つまり、穴を掘って地中に棲むところから、そう命名されたようだ。  ところで、和語の「ね」が、漢字の「根《こん》」に当てられたのは、いうまでもなく中国語の「根《こん》」が「木のねもと」を意味し、それが「物事がねざす(ところ)」とか、「体にねざす力(のもと)」、さらに仏教の用語として「感覚器官のはたらき。性質」(岩波版『漢語辞典』)などをあらわすようになっていたからである。  その「根《こん》」から「根拠」、「根源」、「根本」、さらに人間の心性に関しては「根性《こんじよう》」、「根気」、また「禍根」、「病根」、「根治《こんじ》」などの語が生まれた。数学で方程式を解いて得る数字も「根《こん》」と呼ばれる。要するに「根《こん》」とは、ものの本質的な、いわば中核をなす概念として考えられるようになったのである。  それに対して「葉」のほうは、「枝葉末節《しようまつせつ》」などという熟語が示しているように、本質にかかわらぬ些細《ささい》なものとみなされてきた。むろん、植物にとって、葉も大切な機能を受け持っているわけだが、なにしろ葉は数が多いので一枚や二枚が欠落したところで、全体に大した影響はない。げんに落葉樹は、冬とともに悉《ことごと》く葉を散らしてしまう。そんなわけで、葉が軽く見られるのも、むりからぬことなのであろう。  だが、「幹《みき》」となるとそうはいかない。幹は樹木の脊椎《せきつい》ともいうべきもので、それなしに樹木は樹木たりえない。だから「根」とともに、「幹」は重視され、文字通り「根幹」とされてきたのである。そして、それから「幹部」、「主幹」、「幹事」、「幹線」、「基幹」、「語幹」……といった言葉がつくられることになった。  さて、問題の「根ほり葉ほり」という表現であるが、その意味なら、だれでも知っていよう。「根本から枝葉に至るまで、残らず」というのが『広辞苑』の説明である。つまり、重要な「根《ね》」から、それほど重視しなくてもいい「枝」や「葉」に至るまで、ということだ。その用法は、「しつこく。執拗に問いただすさまにいう」(同前)とある。  たしかにその通りなのであるが、では、なぜ「根|ほり《ヽヽ》葉|ほり《ヽヽ》」なのか、となると、いまひとつ、釈然としない。「根」を掘り起こすように問題に取り組むから、「根ほり」なのだろうけれど、「葉ほり」とは何なのだろう。葉を掘るというのは、どういうことなのか。  不思議に思って何冊かの辞書にあたってみたが、どれも、そこまでは解説されていなかった。そういえば、おなじ「根」と「葉」を用いた表現に「根も葉もない」というのがある。「全く根拠がない」(同前)の意である。これなら一応うなずけるのだが、「葉ほり」だけは、いくら考えても見当がつかない。たぶん「根」(重要)と「葉」(些細)といった対のイメージで、葉もついでに掘らせてしまったのではなかろうか。  もっとも、そんなことを、いちいち詮索《せんさく》すること自体が、「根ほり」ではなくて、「葉ほり」なのかも知れない。とすれば、私は語るに落ちたことにもなろう。  それにしても、樹木というものは、多くの民族にとって、さまざまなイメージをかきたててきたようである。  私はここでスイスの旧約学者L・ケーラーの、つぎのような記述を思い返す。彼はこう述べているのだ。 [#ここから1字下げ] ——ギリシア人は世界をコスモスという言葉で表現している。そのコスモスは「飾り」を意味し、それはまた「飾りたてられた秩序」を意味する。……(それに対して)ローマ人は世界を natura「自然」、すなわち生まれたもの、育ったもの、成ったものと呼ぶ。……(そして)もしもヘブライ人がなんらかの意味で世界を表わす名詞を持っているとすれば、それは彼らがオーラーム olam[#底本ではヘブライ文字] と呼ぶ言葉である。その言葉の意味が何であるかは全くはっきりしない。おそらくそれは隠れたもの、知られざるもの、神秘につつまれたものを意味する。(『ヘブライ的人間』池田裕訳) [#ここで字下げ終わり]  ギリシア人、ローマ人、ヘブライ人(ユダヤ人)の世界像を語ったケーラーの右のような所説を、なぜ私が思い出したのかというと、この三つの世界像が、樹木に譬《たと》えられるような気がしたからだ。  世界を「飾りたてられた秩序」と表象するギリシア人の概念は、樹木でいうなら「枝」や「葉」のイメージにあたるとみたてることができる。それに比べ、世界を「育ったもの、成ったもの」としてとらえるローマ人の世界像は「幹」を重視しているといえないであろうか。そして、この宇宙を「隠れたもの、知られざるもの、神秘につつまれたもの」と考えるヘブライ人のそれは、まぎれもなく「根」という意識である。  げんにギリシア人はオリンピック勝者の栄冠を月桂樹《げつけいじゆ》の枝《ヽ》と葉《ヽ》で象徴させており、ローマ文明は何よりも「幹」を重視し、列柱や幹《ヽ》線道路の建設に威力を発揮した民族であった。そして、この世をつねに「神秘」とみなし、「隠れた」神に運命づけられたものと受け取っているヘブライ人は、世界の知られざる「根」を意識しつづけている民族といっていいであろう。  とすると、日本人はどういうことになるのだろう。  いささかこじつけていえば、「根の国」を想定したり、「根」を重視するところからすれば、ヘブライ人に近く、「枝葉」にこだわる性格からみるとギリシア人に、そして「新幹線」にみられるように「幹」にも力を入れるところからすると、ローマ人的性格も持ち合わせているということになろうか。 「根ほり葉ほり」という日本独特の表現は、こんなふうに考えてみると、意外に日本文化の性格そのものを語っているように思われてくる。  本書を『日本語 根ほり葉ほり』と題したゆえんである。 [#改ページ] [#小見出し]   あ と が き  二十世紀も、あとわずか五年で幕を閉じようとしている。いったい、この世紀を何と名づけたらいいのだろう。激動、戦争、エネルギー革命、環境破壊、人口爆発、過密都市、民族|蜂起《ほうき》、多国籍企業、情報化……じつにさまざまなイメージが、たちどころに脳裏をかすめる。  が、一歩退いて、人間の意識という側面からながめると、そこには前世紀と異った問題が大きく浮かびあがってくる。それは「言葉」の反省ということだ。  などというと、奇異に思われるかもしれない。いつの時代にも、人間は言葉を話し、文字が発明されて以来、書き、読みつづけてきたのであるから。  けれども、人びとは今世紀に至るまで、言葉というものを、あたかも�自然�のごとく、いわば無意識に用いてきた。言葉はつぎつぎに生まれ、新しい言葉は新しい概念やイメージや感覚を育《はぐく》み、人びとはそれによって、「無意識」に「意識」を変えてきたのである。  では、人間の精神を形成するのに絶大な威力を発揮してきた言葉の性格、機能、意味とは、いったい、どういうものなのか。今世紀の初めに哲学者たちは、いっせいに言語に注目し始めた。フッサール、バートランド・ラッセル、ヴィトゲンシュタイン、ハイデッガー……二十世紀哲学は、まさに言語哲学の観がある。この意味で、二十世紀は「言葉の世紀」と呼んでもいいような気がする。  言葉を考えるという課題は、これからも、まだまだ探求を必要とするであろう。なぜなら、今後、人間社会の情報化は、いよいよ進むであろうし、それによって、私たちの意識も、いや、生活そのものまでが激しい勢いで変っていくにちがいないからだ。げんに、日本の社会もマス・メディアによって急速に変貌《へんぼう》をとげつつある。情報化とは、いうまでもなく、言葉が中心的な役割を果す。どれほど映像が力を持ったところで、人間がものごとを認識するのは、最終的には言葉だからである。  とうぜん、言葉はいよいよその量を増していくことだろう。そのあげく、最も大切な言葉が逆に——インフレで貨幣の価値が急激にさがるように——ますます軽視されていくことになりかねない。いや、じじつ、そうなっているではないか。私が言葉にこだわるのは、そのような現状のゆえである。  そこで私は、現今の日本でさかんに�流通�している言葉や表現のいくつかをえらんで、私なりに、その真意をたずねてみようと思った。昨今の「日本」の姿が、あるいは日本人の本性が、それによって、ちらとでもうかがえたなら、私の目的は達せられたといってもいい。このささやかな書が「日本」や「現代」を考えるわずかなきっかけにでもなってくれるなら——そう願いつつ、「あとがき」に代える。  本書は新潮社から発行されている月刊誌『波』に、大門武二氏の勧めによって、一九八九年七月から二年にわたり連載したものである。このたび本文庫に収めるにあたっては、新潮文庫編集部の三室洋子さんにお世話になった。謝意を表したい。   一九九四年十一月 [#地付き]著 者   この作品は平成三年十一月新潮社より刊行され、 平成七年二月新潮文庫版が刊行された。